岡田有希子の自殺から34年(2020/04/12)

34年前、ひとりのアイドル歌手が亡くなった。あの日のことは、初めての沖縄行の思い出と共に、今なお鮮烈な思い出として蘇ってくる。当時の私は、監獄のような大学生活から解放されて神戸に戻り、同級生の住む沖縄を訪問した後の余韻に浸っていた。

地元での就職にこだわった私は、結果として就職できず卒業と相成ったが、4年ぶりに地元に戻れた安心感もあり、周囲から後れをとった焦りもなく、比較的のんびりと構えていたのだった。

何より、当時付き合っていた彼女の住む神戸に戻れたことが最大の喜びであった。あの頃は本当に暖かい気持ちに包まれていたように思う。嵐の前の静けさだったのだろうか?

4/8の日昼過ぎ、私は彼女が職探しをするのに付き合って神戸駅前に居た。
彼女もまた、高校時代に長期入院をした影響で同級生たちと一緒の就職が叶わず、スーパーのレジ打ちバイトで日々を過ごしている身の上であった。

何かよい求人はないか?求人一覧に目を通した後、私は彼女が出てくるまでの小一時間、職安の前でブラブラと過ごした。

その間に自衛隊の勧誘員の目に留まってしまい、憲法問題に付いて議論をする。

しつこい勧誘から解放された後、ほどなく彼女が職安の石造りの階段を下りてきた。

その表情は普段と変わることはなく、つまりそれは心惹かれる求人が今日もなかったことを意味していた。

二人で歩いて駅前のUCC喫茶部に向かい、珈琲を飲みながら、たわいもない話をする。当時は今のようなリクルートスーツも無く、彼女はシックな黒のワンピース姿だった。

そうしているうちに16時を過ぎ、帰宅する彼女を送るため、私は同じ快速電車に乗った。

ラッシュ前ではあったが、車内の席は全て埋まっており、我々は出入口から少し入った所で吊革につかまることもできない。揺れる車内でバランスを取りながら、時々、彼女の肩が私にあたる。

4月の陽気とやや多い乗客の影響で車内はほんの少し蒸した感じだった。

須磨付近を走る頃には、波静かな瀬戸内の海に反射した陽の光が、少し眩しく車内を照らしていた。

その時である。私の正面に立つ彼女が突然「ギャー!」と叫んだ。

何か危険が迫っているのか?私はとっさに彼女が凝視した方向を振り返った。
そして「えぇっ~!」と、私も思わず声をあげてしまった。
大声で叫ぶ我々の声に、車両の大半の乗客が一斉に振り向いていた。

見ると、サラリーマンが開いているスポーツ新聞の第一面にデカデカと掲載された記事。紙面はアイドル岡田有希子の飛び降り自殺を報じていた。
その後、二人とも押し黙ったままとなってしまった。

 

今から考えれば、卒業後に神戸に戻って仕事を探すなど、バブル絶頂期とは言え、安易な決断だったのだが、案の定、就職活動は難航し、半年ほど先の見えないニート生活となる。

一緒に職安に行ったその彼女も5月には就職が決まり、自然と会わなくなった。はっきりとは言わなかったが、どうやら職場で好きな人が出来たようであった。

 

その後、ソフトウェア会社に就職を決めるも、翌年の秋には3ヶ月間休日無し・1ヶ月の時間外労働210時間を記録することになる。

私の社会人スタートは、沖縄での明るい思い出から一転、散々な結果となったのだった。

この時のダメージは、人生2つ目の会社に就職する1988年まで続いたのである。

その一方で、このソフトウェア会社で得たITのスキルが、その後、仕事で発生した危機を何度となく救ってくれたのだった。

沖縄の友人から託された赤珊瑚のネックレスを土産として彼女に渡した。赤珊瑚の価値は、赤味が深ければ深いほど良い。添付の写真のような赤だった。

あの赤珊瑚のネックレス・・・その後、どうなったのだろう。