私にとっての沖縄(2020/04/16)

皆さんが抱く沖縄のイメージはどのようなものだろうか?
沖縄と言えば、ハイビスカスの赤とコバルトブルーの海に代表される南国のリゾート、独特の文化と伝統芸能の継承、大雑把で明るい県民性・・など、多岐に渡るが、やはり筆頭は観光のイメージになるかと思う。

私は、過去5回沖縄を訪問しているが観光のイメージは少ない。それは、同級生やその家族らと行動することが多いからだろう。面白い所では、同級生の奥さんの実家に泊めてもらったことや、同級生不在で奥さんやご両親が私の相手をしてくれたこともある。これらは通常の観光では味わえない、まことに楽しい思い出となっている。

ところが、その楽しかった思い出と相反するように、当時を思い出す度に何かしら息苦しさにも似た感覚を覚えるのだった・・・

というのも、これまで沖縄行の前後で、人生設計を考え直さねばならないような危機や大事件を経験しているからだ。
この人生の転換点とも言うべき危機と沖縄行の関連性は全く無い。単にそのタイミングで沖縄に行っただけ・・・ということだが、それでも適合率は8割である。第4回目の沖縄行の時には同級生の一人とそんな話をしたこともあった。

以下、その人生の転換点・危機である

 1986年~社会人スタート時 → 第1回目
 1995年~阪神淡路大震災 → 第2回目
 1998年~全社システム総入替え
 2008年~リーマンショック → 第3回目
 2020年~コロナ騒動 → 第5回目

 

第1回目の沖縄行(1986年3月)の全前後については「岡田有希子が亡くなってから34年」にて詳しく書いた。

第5回目の今回(2020年3月)については改めて書く必要も無いかと思う。
昨年の11月上旬に友人から電話があり、「次女が3月に結婚することになった。交通費、ホテル代他、全てこちらで持つので、是非来て欲しい。」これが発端である。

同時に、奄美大島沖縄県内の同級生らと同窓会をやるという。
これまでの沖縄行全てそうだったが、飛行機代のみ私が持ち、宿泊は同級生の家、飲食は同級生持ちだった。逆に彼らがこちらに来ても同様である。

今回、コロナ騒動に推移に合わせるかのように、私が気を使って事前に飛行機を予約してしまったところから話は二転三転。3月13日の宮古島入りとなった。
コロナ騒動は現在継続中で収束の兆もなく、全く先が見えない。

一年後、世界は一変しているかもしれない。

さて、第2回目の沖縄行(1995年7月)は阪神淡路大震災の半年後だった。
私の安否を気遣ってくれた友人達からの電話が発端となっている。

屋根のブルーシートが全く無い沖縄の風景を目の当たりにし「こんな世界があったんだ・・・」と、被災地神戸を外から見つめるきっかけとなった。

そして翌年の1996年は知る人ぞ知る「墓相事件」勃発。結納直前で婚約解消という経験をする。この時結婚していれば、モンゴルもニュージーランドも、基礎スキー山スキーも無かった。大転換点である。

第3回目(2008年10月)は、何度か書いた「リーマンショック」前夜での沖縄行だった。来神直後からあれよあれよという間に状況が悪化し、思い出すだけでもぞっとする結果となった。
今回のコロナ騒動初期での沖縄行にやや似ている印象だ。

 第4回目の沖縄行(2014年5月)は、大きな社会的事件は無かったものの、翌年に現在の職場へ転職しており、生活パターンは大きく変化した。

 ここでいう人生の危機に、東日本大震災や2010年の退職は含まれていない。というのも、私個人が直接の痛手を負ったというわけではないからだ。

 ひとつ、転換点・危機となった出来事として1998~1999年にかけての全社システム総入替えがある。実はこのプロジェクトが完了した1999年7月に、上司に辞表を叩きつけかけて踏みとどまった経緯がある。代わりに1週間のストライキ(出社拒否)を行った。

この時、沖縄に行っていれば、転換点・危機と沖縄行の関係は10割・・・ということである。