多様で自由な価値観で人生を送れないか?(2020/05/02)

もっと多様で自由な価値観で人生を送れないか?
コロナ騒動からやや離れる話題だが、就職氷河期問題に絡んだ日本の価値観について、経験から思うところを書く。


昨夜、専門家会議の副座長の尾身茂氏が、コロナ騒動収束後も「接触機会を減らした新たな生活様式の定着」を呼びかけた。

これまで、とにかく何でもかんでも、みんなが集まって物事を行うことが「良し」とされてきたが、今後は各個人がそれぞれのスタイルで生きて行く社会に変革することが大切だ・・・みたいなことを言った。

そこで感じるのは、この日本社会・・就職氷河期に代表されるように、まだまだ、6・3・3・(4)で就職し、60歳定年のレールから外れると、簡単に復旧できない。

私は両親から戦前の学制を聞き込んでいるから、現代のこのレールを常々不思議に感じている。実際、私自身も大学卒業後、直ぐに就職が叶わず、大変な苦労をした。

戦前が良かった・戦前の学制に戻せ・・・ではなく、もっと融通の利いた自由な社会にならないものか?と思う。

 

①父編
戦前の学制はわりに自由で束縛が無かった。その代わり尋常小学校卒業後に進学できる裕福な家庭も少なかった。

父は昭和4年生まれで2歳の時に父(僕の祖父)を亡くし、母子家庭で育った。姉(私の伯母)は8歳も年上で姉というより母に近いものだった。

数えの12歳で尋常小学校を卒業し、一旦は高等科へ進学するも、商業学校の受験を行い、1年遅れで商業学校へ進学する。
他に青年学校などからも受験入学が可能だったので、クラスの年齢層は13~18歳までの幅があった。

商業学校は4年制だったが、軍事教練や学徒動員の影響で勉強はほとんどしていない。そんな時世だったが、英語や中国語の授業は存在したという。商人になるには必要とみなされていたのだろう。

佐世保への学徒動員中、盆休みの帰省中に終戦を迎えるが、終戦特例で3年で卒業となる。同級生で予科練に行ってた者も、この時、多くが戻ってきたという。

商業学校卒業後、17歳から代用教員3年、正教諭3年を勤める。昭和28年に試験を受けて〇〇大教育学部に入学する。この時、母(私の祖母)が亡くなり、両親共に死に別れてしまう。

昭和32年に〇〇市教員スタート。昭和63年に早期退職。
その後、趣味で取得した資格を活かし、ビル菅業を76歳まで行う。

まぁ、大変な人生である・・・
早くに両親に死に別れて大変だったと思うが、本人に聞くと、案外そうでもない様子。

父はギフテッドに近く、ギターやピアノなど、誰に教わることも無く、一度聞けば弾ける。テニス、卓球、スポーツは何でも来い。勉強も教科書をペラペラめくっていれば頭に入るようだ。
父の人生はそんな明晰な頭脳あっての努力の結果だと思う。

既に17歳から仕事をしており、母、姉との同居で生活費に困ることも無く、地方のど田舎ではお金を使うことも無く、6年分の貯金を持っての大学生活。奨学金も申請したので、金に困ることは無かったという。その奨学金も教員になったので返済義務は消えた。

昭和32年に単身、〇〇市に移り住むわけだが、当時は集団就職に代表されるように、地方出身者は都市へ流れるのが風潮でもあった。

〇〇市の教職員の中でも珍しい地方出身者で、学閥にも属さなかったが、たまたま最初の赴任先でトラブルに巻き込まれた際、相談に乗ってくれた先輩女性教師の旦那さんが、市消防局の幹部だったことが、父の人事異動に大きな影響力を持つことになる。

 

②自分編
私は高校まで特に不自由なく生活して来たと思う。細かいことを言えば、小学校の時と中学3年の時に修羅場はあった。しかし、まぁ一般的に幸せな十代を過ごせたように思う。

高3の時にアマチュアレスリング個人戦で全国大会に出場した。その推薦というわけではないが、推薦で入学できる地方都市の工業大学に進学した。学費も生活費も安く、関東方面の大学に進学するよりは親孝行だったと思う。実習や実験が多く苦労したが、無事に4年で卒業できた。卒業時、半数が留年ないし退学していた。

地方大学ということで、地元からの就職が一切なかった。もちろん、研究室での実習と実験に追われて、地元に戻っての就職活動は出来なかった。

進退窮まった挙句、卒業研究で学んだプログラム技能を伸ばす目的も兼ねて、1年間、夜間のソフト開発専門学校に通いながら、就職活動をすることにした。夜間ということで学費も破格で、長い目で見れば大変良い選択だったと思う。その後、仕事での危機を何度もプログラミングで乗り越えたことを考えると、この1年は大切だった。

ところが、名も知れぬ地方大学の、それも就職浪人生など、どんな会社が注目するだろうか・・・正直、大変な苦労をした。それでも運良く9月にソフトウェア会社のアルバイトが見つかる。その延長で翌年の就職が叶った。

ところが時代はバブル期である。ソフト会社は凄まじい残業地獄。3ヶ月間無休で、最大210時間の時間外労働を経験した。(月間6日休日の会社である)

 

私は父のようなギフテッドでもなく、勉強はあまり出来ない方だったが、何をやらせてもまんべんなく70点が取れるような器用さがあった。