民主主義の死(2020/05/26)

政治の話題ではない。

「自由で平等な空気が民主的な社会を育む」

そのためには、一人一人がしっかりと地に足の着いた「個」であるべきだ。
これを、個人の「自立」(Independence)と言い替えても良いだろう。

 

 その「個」々(ここ)が、一つの「理念」に賛同し、協賛することで「動き」(Movement)が発生する。
マーガレット・サッチャーではないが「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」ということだ。

仮に「理念」が自分の思いからズレて行ったとしよう。
そんな時、協賛から外れることは自由である。また、一人一人がしっかりと地に足の着いた「個」であれば、意見の相違が生じても、互いを讃えることが可能となる。
そして理念が合えば、また戻れば良い。それが「協同」(Cooperation)の本質であり、本来の民主主義である。

民主的な社会であれば、「個」々が、自分の「理念」に適した「小集団」を探して移動したり、また「小集団」を主催することが可能となるが、「個」が移動するに伴い、互いが関連し合った(連携された)重厚なネットワークが構築されて行くことになる。

 ところが日本の場合、「小集団」同士は排他的な縦割り構造となっており、それぞれに接点が持てないのが基本である。また、一旦、集団に属すれば、集団の維持を目的にした「強制」や「義務」が生じてしまう。そこにタテ社会日本の「小集団」の理論が存在している。

結果として、小集団の全員が強制的に同じことをすることが求められる。一方で末端に取り残された人々には孤立が生じることとなる。本来、集団から距離を置くべきだ。

逆を言えば、距離を置いても大丈夫なように、一人一人がしっかりと地に足の着いた「個」であるべき・・・ということになる(父性論理)

一方、社会には何らかの事情を抱え、助けを必要としている人々が少なからず存在する。そういった人々は、「自立」(Independence)してないわけだから、切り捨てられても良いのか?

大切なのは、全員が一律に同じことをするのではなく、個々に適した場(集団、グループ、理念)が数多く存在する社会が「平等で民主的な社会」ということだ。

この勘違いが日本の戦後教育の失敗だったと言える。

 

岡村隆史
彼は彼の独立性を維持するために自主的に番組を降りるべきだった。ところが、番組から降りれば彼の業界内の地位が脅かされる可能性があった。(金銭的にはもう十分と言えたが)放送業界という「集団」に依存し、独立できない状況(母性原理)といえる。これは人格を人質に取られているのと同じ状態だ。
 

個人が、故郷の村や一族から旅立つ・・のは、一種の「居場所探し」の旅のスタートなのかもしれない。