緊急佐賀行(2020/11/15)

 木曜日、何気にGoogleストリートビューを見ている最中に、佐賀の大叔父宅が取壊しとなったことを知る。路地の奥、ストリートビューの入れない先に、工事のカラーコーンが見えた。
2010年に亡くなった大叔父は、長らく佐賀大の下宿アパートを自宅の敷地内で営んでいたが、本来、そのアパートの影になって見えてない裏手の民家が見通せる状態となっているではないか。
これは大変なことになった・・・
この日が来るのはわかっていたのだが、僕としては手の打ちようが無かった。

佐賀市内のお宅には次男さんが一人で住んでいたのだが、電話をかけても使われているはずもなく、どうなってしまったのか?そして、昭和初期の陸軍航空隊創成期のアルバムや功五級金鵄勲章と賞状、ノモンハン事件の際の部隊感状など、大叔父の遺品の行方は?

大叔父の亡くなる2年前の2008年・・・
僕は連絡が取れなくなってしまった大叔父を訪ねて、直接、お宅を訪ねたことがあった。次男さんはお宅の敷地内にある佐賀大の下宿アパート(既に下宿人は置いてない)の一室に住んでいた。
正直、まともでない、話の通らない、厄介な方であった。
入院しているという大叔父の行方をたずねると、わからないという・・・
次男さんは、僕の目の前で東京の長男さんに電話をし始めた。
そして直ぐに口論が始まった。
程なく、長男さんが僕と変わってくれと・・・初めて大叔父の長男さんとの会話である。
長男さんによると、弟に世話を任せていると父を殺してしまうので、秘密裏に入院先を変えたのだという。
僕が見舞に行きたい旨を知らせると、寝たきりで既に会話のできない状態ではない。そして、弟にばれると厄介なので入院先は教えられない・・・とも。
その後、次男さんに付きあわされて、僕は大叔父の入院先を探して、佐賀市内を四半日、走り回ることとなった。
次男さんとは、その後、しばらく年賀状のやり取りがあったが、それもいつしか途絶えたのだった。

時を経て、2013年に東京の長男さんと会う機会があった。
僕が2008年に佐賀のお宅を訪ねた後、入院している大叔父を、チャーター機を使って東京まで移させたのだという。その後、長男さんが世話をし、看取ったのだった。
大叔父はまさしく「大空の人」だった。
佐賀から東京までの空路による移動はリスクが伴なったが、大叔父はなんと!機内では終始笑顔で上機嫌だったという。
これにはビックリ・・・!

そして、その長男さんも、2年前に、突如、亡くなってしまった。
奥さんも大変な長患いで、どうなっているか?

大叔父の遺品というのは、御親族以外であれば相応の資料館に保管されるべき代物である。難しいのは、遺品の処理というのは外から口出せる話ではない点だ。正直なところ、御親族の誰にも言い出せずに居た、その結果がこれである。しっかりと御親族の管理下にあれば良いが、それすら確認ができない。

大叔父あっての母であり、父と結婚したのも、その縁である。
その大叔父が昭和14年に命がけで戦隊長を救出した、その感状と勲章など一式・・・心ある人の管理下であれば良いが、ヤフオク何かに出されていれば最悪である。
これだから、僕が屋敷が取り壊されたのを知って、愕然とした心情もお分かりいただけると思う。

先ずは町内の老人福祉センターに電話をして、地区の民生委員さんがこの件を把握してないか?を問い合わせた。
当然のこと、先方はなんのこっちゃ?という感じではあったが、一人暮らしの老人の所在を確認したい・・という意図を汲んでくれ、佐賀市役所総務福祉課に連絡を取ってくれた。
ありがたい・・・

総務福祉課から民生委員さんに確認を取ってくれたようだが、次男さんの存在はつかんでないという。
実は佐賀市では、65歳以上の高齢者?は、何がしかの形で把握されているという。ところが次男さんが住んでいた履歴すら残されてないらしい。次男さんは、一度も定職に就いたことが無いと、長男さんが言ってたが、いやはや・・・

さて、家の取り壊しについては所有者の承諾が必要だから、恐らく、東京の長男さんのご家族が何か絡んでいるだろう。東京の長男さんが亡くなった時に、もらった喪中ハガキの連絡先に電話をしてみる。すると、現在は使われていません・・とのアナウンス。
これで、直接のルートは完全に途絶えた。

そして、東京の長男さんのお宅の住所をGoogleストリートビューで確認すると、なんちゅうこっちゃ!取壊し移転ではないか。佐賀と東京で家の取壊しとは・・・完全に接点が途絶えてしまった。しかし、Google、使え過ぎて怖い。

最終的に、佐賀の従弟を介して大叔父の本家に連絡を入れる。すると、本家筋は家の解体には全く関与してないことがわかった。次男さんも2年ほど前に亡くなったのは間違いないようだ。となれば、家の所有権のある東京の長男さんの家族が何らかの形で解体に関係したと推察される。
それにしても、僕がこの件に関与できた瞬間はあったのだろうか?意識的に働きかけ続けることで、それは十分に可能だったと思うのだが・・・

これは現地でご近所に聞き込みするしかない。しかし、行ったところで何かがわかるはずもなく・・・
いや、行くしかないだろう・・・・
さて、大叔父の御宅が取壊しになったのを知ったその木曜日は、翌日の段ボール・古紙回収に向けて部屋の整理に大忙し。これが相当にキツかった。
翌日の13日(金)の泊り勤務は息つく暇も無し。
明けの14日は、2番館H階段の非常照明LED化工事を依頼され15時まで残留作業。
正直、落ち着けて計画を練る暇も無い中での、ぶっつけの佐賀行となる。
実際のところ、明け残作業で、夜行バスはアウトになり、前日では「おとなび」の割引も不可。せめて「駅レンタカー」は予約しておこう・・・と考えたが、昨今のコロナ禍で営業時間の短縮である。
時間が迫る中、他のレンタカー店を選択するところから明けの夕方はスタートする。
ふと気付くと、連日の作業で疲れもピークとなり、喉も痛くなってきた。熱が出なければよいが・・・

15日の朝は3時半起床。5時過ぎには自宅を出る。
西明石駅では朝焼けがきれいだった・・・
9時に博多通過。9時半には久留米到着。
初めて利用のトヨタレンタカー・・・車種はヴィッツだった。
普通車の運転は何年ぶりだろう?NZ以来だろうか?

快晴の豆津橋・・・爽やかで気持ちが良い。

この土日、本来なら沖縄の同級生の娘さんの結婚式に招待され、カチャーシーを踊っていたはずである。

思えば、佐賀市内の大叔父宅を初めて訪問したのは1999年10月下旬。親を介さず、自分で始めた親戚付き合いの原点になる。
その時も快晴だった。僕が佐賀を訪れた時の快晴率は異常に高い。
大叔父とは年齢差50歳以上ではあったが、誕生日が数日違いということで?妙に気が合ったのだった。
そしてこの時の訪問は、僕が親戚縁者の昔の話(戦前~)の聞き取りと記録を始めた原点でもある。
伯母達はよく覚えているらしいが、母の一家が満州の鞍山市に暮らしていた時、大叔父が戦闘機で飛来し、社宅の上空で宙返り飛行を行ったことがあった。(残念ながら母はまだ幼く、覚えていない)
その宙返りを行った方に話を聞けたのである。
大叔父が最寄りの警察に連絡をし、警察から一家に大叔父飛来の連絡が行ったということだった。
伯母達が手を振っているのが上から良く見えたという・・・

11時、取り壊された大叔父宅周辺に到着。ご近所さんを手当たり次第に訪問して行く。午前中は合計で7軒のお宅に声をかけた。
もちろん、門前払いの家もあったし、日曜日の正午ながら、留守宅が多かった。
有力情報は殆んど得られなかったが、7軒目・・・これから外出しようとしているご夫婦を発見する。
過去の経験上、僕の視界内に、自ら現れた方は吉報をもたらす・・・
案の定、かなり有力な情報を得ることができた。

2010年に東京で大叔父が亡くなった際、こちらで縁者を集めての「お別れ会」を、長男さんが執り行ったということ。
向かいの(不在だった)工務店さんが良く知っているのではないか?ということだった。
この御夫婦も、東京の長男さんが2年前に亡くなったのは聞いておらず、大変、驚かれていた。

正午過ぎ、コンビニで昼食の後、再度、不在だった工務店をあたる。しかし、不在・・・夕方にもう一度あたってみることにする。
約4時間の時間が出来たので、本家の連絡先を教えてくれた、みやき町の従弟のお宅に向かうことにする。
自分の予定が全く読めなかったので、予告すらしてない・・・
一応、携帯に電話をしてみたが出ない。
驚くやろな・・・
市内からみやき町まで約50分のドライブ。
従弟一家は驚きながらも、暖かく出迎えてくれた。

そこで、大叔父とも仲の良かった、東京の叔父の話題となる。叔父からも大叔父の話は良く聞かされていた。
2012年に亡くなった東京の叔父は、協栄ジムの創成期のメンバーだった。ケンカ慣れしてたので、特に問題も無く、直ぐにプロライセンス取得。3回戦まで全勝(ここまでは事実)
4回戦以降は、相手が嫌がって、充ててくれなかった・・・との、自己談(笑)
実際はわからないが、減量なんか大嫌いなタイプの人である。
従弟一家との話は広がりを見せ、奥方から祖父の遺骨は今どこに?という質問が出る。
はて?僕もそれは意識したことが無かった。
従弟が叔母に電話をする。すると、村の納骨堂に納められているという。そういえばうちの母もそんな事、言ってたな・・・
「近所なので納骨堂を探しに行ってみますか?」
従弟の奥方も、村内で納骨堂らしきものを見た覚えが微かにあるという。
一家で村共有の納骨堂探しとなった。
ここでも聞き込み・・・である。
3人目の方が有力情報を教えてくれた。
はたして、そこに納骨堂はあった。
僕も何となく見覚えがあった。
数十年ぶりとなる、いや、人生初なのかも?
2人の孫とその一家による祖父の墓参りである。
ちょっとした、そして大きな収穫であった。

 時間も迫って来たので従弟一家に別れを告げ、佐賀市内に折り返す。そして、午前中にも拠点にしてたコンビニの駐車場に車を停め、再度、工務店さんを訪ねる。しかし、不在・・・
そこで、8軒目、庭で作業している男性が見えた。もちろん、声をかける。
かなり怪訝そうな表情をされたが、事情を説明すると、工務店さんが土地を買い取ったという情報を教えてくれた。確実情報である。
今回はここまでで終了とした。
工務店の電話番号はトラックに明記してあった。いずれ電話して聞いてみよう。後は久留米でレンタカーを返却して神戸に帰るのみである。
やや時間にゆとりがあったので、従妹のところも訪ねてみる。生憎、旦那とは入れ違いとなってしまったが、30分程度、両親の近況などを伝える。
17時半、従妹の嫁ぎ先を退出。千栗の交差点付近のGSでガソリンを満タンにしてレンタカー返却。久留米駅には18時着、22時過ぎに帰宅。
約17時間の旅であった・・・


下り「こだま」始発を西明石で待つ・・・新神戸で「のぞみ」を選択する方が早そうである。しかし、早すぎる到着だとレンタカー屋が開店してない場合もあり・・・


博多を過ぎ、背振山を望む・・・この風景を見ると、九州に来た!という実感が沸く。見慣れた六甲山系より大きな山容だが、意外に変わらない1,054.6m


筑後川を越えれば、もう久留米駅・・・


9時半、久留米着・・・ええ天気!今回は、松田聖子のヒット曲「赤いスイートピー」は流れてなかった。


今回、初めて利用するトヨレン・・・NZ以降、普通車を借りたことが無かったんだな。


母が若い頃に経験した洪水の話にも時々登場する。


佐賀平野・・・


筑後川沿いの河川敷はリンクスコースが盛ん・・・>


車はヴィッツ、グレードは?


運転席まわり。


エンジンルームはこんな感じ。


ひと息入れた直鳥クリーク公園。


神戸辺りではちょっと馴染みが無いのだが、要するにクリークが発達した、その地形を利用した「城」だったらしい。佐賀平野にはこのようなクリークに囲まれた「城」そして「寺」が複数存在する。


空から見ない限りよくわからない、ただの池のある公園。


目的地に到着・・・>2008年以来、12年ぶりとなる。路地の奥、やはり大叔父の家は取壊しとなっていた。


まず、おそらく、今後、行くことはないだろうな・・・末広町のコンビニ。


佐賀市内のよくある風景・・・


鷺などの水鳥が・・・


時間が出来たのでみやき町の従弟一家を訪ねる。約50分・・・


共栄ジム時代の叔父・・・


村の納骨堂を見つけることができた。


みやき町から市内に折り返す。


遠くに島原半島の山々が見えた。


 16時。再び訪問するもアウト・・・あとは神戸に帰るだけである。


時間が出来たので従妹の嫁ぎ先も訪ねてみる。


佐賀平野の夕暮れ・・・


18時、久留米駅着。


福山城周辺は3年前にも訪れた場所・・・


懐かしの車内。


そういえば、大叔父に会いに行った1999年の「のぞみ」は、この500系だった