明石歩道橋事故(2021/07/23)

本日から東京五輪開幕だが、実はつい先日「明石歩道橋事故」(明石花火大会歩道橋事故)から20年経過したのだという。

頻繁に通る場所でもあり、前年、前々年のことを思えば、他人事では無かった。現在の報道では触れられてない点もあるので、過去のまとめを今回は記述しておこうと思う。

【明石花火大会歩道橋事故】(写真は神戸新聞2001年7月22日夕刊より)
記憶も曖昧になって来たのでまとめておこうと思う。
明石海峡大橋の完成に併せて大蔵海岸がオープンしたのが1998年だったと思う。
歩道橋事故は、明石市役所付近で行われていた夏の花火大会が大蔵海岸に場所を変えてから3~4回目ぐらいだった気がする。
(※記事を読むと、歩道橋は2年前の完成とあるので2回目の花火大会だったのが正しいようだ。)
JR朝霧駅から自宅まで15分程度の距離にもかかわらず、花火大会の夜は毎回、想像を絶する混み様で、自宅までの道程を1時間ほど人込みを縫うように帰る必要があった。
3回目ぐらいだった気がするのは、予め花火の日程を把握して、JR舞子からの帰宅が成功するまで、何度か花火大会に遭遇してしまった痛い記憶があるからだ。
私が帰宅時にJR朝霧駅に着く19時~19時半頃というのは、込み合いも最悪の時間帯で、ホームから人が落ちても不思議ではない状況から改札を出て、花火が見通せる狩口台の海沿いの道にかけて、延々と見物の行列が続き、その人混みが掃けるのが駅から850m離れた西舞子へ下る坂道まで・・・という状況だった。海沿いの道は路上駐車の嵐で大渋滞。そして国道2号線も大渋滞であった。
自宅から花火は、狩口台の山の影になり、殆んど見えなかった。距離が近いだけに音だけは迫力があった思い出がある。
その夜、花火の音が聞こえなくなり、30分ぐらいした頃だったと思う。消防車と救急車のサイレンが聞こえ始めた。
当初は「近隣で火事かな?」と考えたが、サイレンは一向に鳴りやまず、むしろどこかにものすごい台数の消防車と救急車が終結してくる感じ・・・
まさにその6年前に起こった、阪神淡路大震災の直後の数日間を思わせる様相だった。
いったい何が起ったのだろう?インターネットのニュースを確認するが何もわからない。今とは違ってTwitterなどのSNSも無い時代である。震災の夜を彷彿とさせるサイレンの音に、当時が蘇り、寝れなくなった。
サイレンの音は深夜2時頃まで続いたように記憶している。
不気味さで寝れなくなり、再びネットで情報収集するも不明。
明け方の4時頃だろうか? 確か「2ch.」の書き込みから、JR朝霧駅付近で将棋倒し事故が起きたことを知った。
夜が明けて直ぐ、駅前まで行ってみたが、歩道橋は封鎖されており、数名の警官が立哨していた。
静寂が周囲を包んでいた。駅前にゴミが散乱している以外、昨夜の喧騒をうかがわせるものは何もなかった。
後日、歩道橋が通れるようになってから行ってみると、タイルの床に、可愛いシールが貼られたり、書き込みがされていた。また、歩道橋の手すりの金具の根元がいびつに曲がっており、人込みの圧力の凄さを改めて感じることとなった。
今でもまだ手すりの金具は曲がったままだと思う。←(※最近の記事で当時の手すりは外され、保管されているという)

2001年7月21日の夜、痛ましい事故が・・・
消防・救急のサイレンが一晩中鳴り続け、阪神淡路大震災の時を思い起こさせる一夜だった。どこで何が起ったのか?朝までわからなかったのも印象に深く残っている。
事故直後、現場に居合わせた後輩一家の話によると、心肺蘇生があちこちで行われ、それはもう凄まじい惨状だったという。
この日、私はJR舞子駅から帰宅。朝霧からだと通常15分のところが1時間近くかかってしまうので近づかないようにしていた。
歩道橋での事故は驚きだったが、むしろ駅のホームから人が転落する可能性の方が高いと感じていた。これはいつか何か起きるぞ・・・と。
事故後、歩道のタイルの上に小さなキャラクター・シールやら、寄せ書きなどが多く見られたのも印象に残っている。まさにこの場で亡くなった方々を偲んでのことだ。特に小さな子や年配の方が犠牲となった。
それと、遺族会が発足した途端、遺族会長宅に、昼夜を問わずひっきりなしに恫喝の電話が鳴り続け、奥さんがノイローゼになってしまった話も忘れないでいたい。

朝霧駅の状況については(神戸市垂水区無職女性73才、神戸7月24夕)
「歩道橋だけでなく、JR朝霧駅構内も大混雑でした。午後7時ごろホームに降りたものの、1時間半ほど出るに出られず。次々に後続電車から客が降りてきてたまる一方で、いつホームへ人が転落しても不思議じゃなかった。みんな『電車、もうこれ以上来るな!』と叫んでいるのに、駅員は1人も見かけませんでした。そしたら若い男の子10人ほどが、それぞれの肩に手を乗せ合って人間の鎖をつくり、ホームの際に立ってガードしてました。大きな声で『小さい子、気をつけや』『ホームから落ちんように』って。改札付近も舞子駅へ戻ろうとする人波や、あきらめて神戸の花火大会へ向かおうとする人の流れが押し合いへし合いでパニック状態。それでも駅員の指示はいっさいなかったんですよ。」

2000~2001カウントダウンの様子

 

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111012j:plain翌日の神戸新聞の記事

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111019j:plainこの写真はこの時以降、ネットでも見かけることが無い。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111315j:plain現在の様子(2020年2月撮影)雨風による風化の影響で、透明シートが付加されたアクリル板に、遺族らの当時の寄せ書きが浮かび上がっている。記憶は風化してゆくものだが、風化により、むしろ当時のことが浮かび上がるとは、実に不思議である。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111103j:plain画像加工で鮮明にしてみた。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111035j:plain「安心して安らかにおねむり下さい」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111040j:plain「天国で元気にくらして下さい。」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111044j:plain「天国で親しい・・を作り、その・・を」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111049j:plain「お願は(けさないで?)下さい。」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111053j:plain「天国でみんなと力をあわして」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111058j:plain「自分をしんじ・めないで。」

 

また、当時、印象に残っているのは、亡くなられた位置の床面にプリクラなどのシールなどが貼り付けられ、マジックで数多くの寄せ書きがなされていた事だ。

実は、この文字の浮き上がりに気付いたきっかけは、柱に貼られていた小さなシールだった。「あれっ?! あの時と同じだ・・・」
よく見ると「愛の証(あかし)・明石」とある。

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f:id:skihakuba2drnobo:20210723185146j:plainそしてアクリル板の劣化による文字の浮き上がりに気付いた次第。先日は気が付かなかったので、今はもうこのシールは剥がされているように思いう。恐らくこれは、この浮き上がった文字に気付いて欲しいと想う誰かの仕業によるものだろう。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726124941j:plainこの写真位置が、当時シールや寄せ書きなどが、なされていた場所か?正確な位置は思い出せない。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726124946j:plainそれでもこのタイルを見るたびに、剥がされ消されてしまったシール、寄せ書きを思い出すのである。