駄菓子屋の意義(2021/07/29)

駄菓子屋か・・・あまり考えたことは無かった。
外国人記者による「日本の駄菓子屋考」を読む機会があった。

考えれば、僕ら世代の少年期、駄菓子屋で過ごす時間というのは、ごくごく日常であり、駄菓子屋文化の無い(?)外国人記者が抱くような視点で駄菓子屋を考えたことは、僕自身、これまで無かったように思う。
記事の内容はさておき、「子供の居場所」「経済観の学習」という二つの視点で、思う所有り・・・だった。
特に「子供の居場所」に付いては、昨年のコロナ禍が始まった当初に感じた謎に繋がるものである。
子供は常に親が相手をしてやらねばならないものなのか?
という素朴な疑問である。
僕らが少年期だった1970年代と現在、また、都市部と地方では環境があまりに違い過ぎるので、比較はできない・・・これを前提とした上で書くと、
僕らの子供時代は、学校の授業が無ければこれ幸い・・・小銭をポケットにチャリンコで駄菓子屋へ向かい食料調達。学校の校庭やら周辺の空き地・河原などに造った秘密基地などで過ごし、夕食の時刻になるまで戻らないのが常であった。もしくは、17時半、18時から始まるテレビ番組を目標に帰宅である。

我が家は当時としては、やや流行化しつつあった「鍵っ子」である。学校が終わってから以降、自然に同級生が集まるか、そうでなければ一人で遊んだ。必ず誰かと過ごさなければならないわけでもない。


※イメージに合う写真が見つからなかったので、超精巧ジオラマの駄菓子屋を・・・これは「情景師アラーキー」氏の制作したジオラマです。

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