ナンバ本陣動画(2021/10/13)

ナンバ歩きを広めた方自身のYouTube動画。正しいナンバ歩きを理解することが出来る。

矢野氏の著書「ナンバ走り/2003年」「ナンバの身体論/2004年」で書かれた内容が、凡そ18年後にYouTube動画で確認できるようになった。

恐らく、体幹をひねらない・・・ではなく、積極的にひねる・・・で考えてもらう方が多くの方々にとっては実践しやすいはずだ。この点は書籍と同様、ナンバを難しくしてしまっている。

恐らく、ご自身が理解出来てないのか?今さら言えないのか?それは謎だが、大きく腕を振ろうが肩を揺らそうが、ナンバは可能なのである。

しかし、僕としてはナンバと呼ばれる「この種の歩行・RUN」を、果たして「ナンバ」の呼称で表現して良いのか?と考えて止まない。


では「この種の歩行・RUN」その得られる結果とは何だろう。「蹴らずに歩く・RUNする感覚」「人込みをすり抜ける感覚」など、様々・・・スキーで言えば「Let」である。

「小林寛道理論」「末續走り」「矢野流ナンバ」そして僕の歩行論・・・これらに共通するのは①強く蹴らない(蹴る要素が少ない)、そのために②必ず身体のどこかで部位同士の交差・つまり「ひねり」が生じている(モーメントの相殺)、③結果としてバランスによる吸い込まれるような前進・・・が起こる。

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僕の場合、重いバックパックを背負ってのランニングで「この種の歩行・RUN」に気付いたわけだが、恐らく古来、雑兵らは甲冑などを身にまとい、武器を手にした状態で「この種の歩行・RUN」を会得したと考えられる。これはアフガンに駐留した米軍兵士でも同様だ。

簡単に言うと「蹴って」歩いたり走ったりできない状態である。砂浜を走ったり、雪原を移動する時、またスリッパで走る時なども同様だ

甲冑やバックパックなどで体幹の動きが制約される場面で導入の糸口がある。同様に、体幹をひねらない・肩を動かさない状況で、「矢野流ナンバ歩き」では腕を上下に動かすことで交差を行っている。
・・・ところが、実は腕を大きく振ることでも脚部との交差が可能で、結果「この種の歩行・RUN」が可能なのである。

もちろん、腕に頼らず体幹の内部的な交差を用いることで、やはり「この種の歩行・RUN」が可能である。この着目が「小林寛道理論」であり、発展形が「末續走り」になる。 

一例;沖縄舞踊のカチャーシーの手の動きを応用した、上体のラインと下肢のラインのずらしを伴なった崩し。

つまり、全ては人間の動作の延長上ということだ。恐らく「現代風歩行」を否定するところからナンバ論はスタートし、そこから話がこじれ始めるので、現代風もナンバも同一線上にあると考えれば良い。

以上が、僕が「ナンバとの10年戦争」で得た結論である。


甲野善紀氏は完全な「同側動作」によるナンバの有効性を披露。これが真のナンバである。問題になるのは矢野氏の披露するナンバ走りとの「共通点」そして「違い」ではないか?
→「同側動作」(※PENTA/№31・200510)小林寛道氏


名著なのか迷著??なのか・・・この内容そのままにWikipediaに掲載すれば、独自研究性、二次資料・三次資料の提示によるエビデンス向上を求められるだろう。

とは言っても、紹介されている「歩き・走り」は、当に動画の通りで真実である。

しかし、現実に著書掲載の写真には体幹のひねりが見られ、「ひねらない・うねらない」という内容とは矛盾している。

この点について矢野氏はYouTube動画で「以前から(ナンバ型ではないと)違うと言って来た・・」と発言しているが、「ナンバ」の言葉の意味が「六方」型である以上、誤解を生んでしまうのは当然のこと。その矛盾を当時から「現代のナンバ」「〇〇流ナンバ」「〇〇的ナンバ」「いろんなナンバがあって良い」等といった表現で、つじつま合わせを行っていたように思う。

ナンバ走り」とはせず、正しくは「ナンバからの導入」とすべきだった。


 

思うに、この議論を決着に導くには、BostonDynamics社の「Atlas」に、「この種の歩行・RUN」をマスターさせて、動きの違いをデータ化し、検証するしかないだろう。

 

Schi Heil !!