深夜2時半、ふと思い付き、ノートにブレストする。
↓↓↓
人生の分岐点に於いて、ただの迷惑社員が優秀社員に変貌することは可能だろうか?
僕は社会人に出て直ぐ、ボーナスカット処分という手痛い洗礼を受けた。この手痛い判定を下した人々を見返す意味もあり、(処分の時点で退職を決意しており)どうせ辞めるのだから…と実験をしてみたのだった。
それまで学生時代のバイトでも良い評価を受けた経験が無く、いきなりの就職浪人、バブル期絶頂ながら全く採用を取ることが出来ず、家でも居場所もお金も無く、行く場所も無い、ニート・引きこもり寸前だった僕が、何とかバイト待遇で潜り込んだのが、このソフトウェア開発会社だった。
今思えば破天荒過ぎた…それだけなのだが、入社時の印象は悪かった。度が過ぎて諦められたのか?誰も注意しない状態。結果として、自分はそれで良いのだと思ってしまう。
さて、どのように変貌するのか?であるが、同期4名はそれぞれ違った個性を持っていたがそれなりに優秀で、何となくお手本にできる感じ。何より、彼らが周囲から受けている「態度」と同じ状態に持って行けば確実というわけである。
思い立って行動を始めてから3ヶ月で結果は出た。意外にも簡単だった。そのタイミングで会社に退職を告げた。
次の会社で同じ失敗を繰り返すのか?同じ方式で仕事を始めると、直ぐに評価は得られた。それからは社内で部門を変わる度に、これは「転職」なのだと考え、フィードバックと実験を繰り返したのだった。
更に転機となったのが1999~2000年にかけて行われた「社内コンピューターシステムの総入替え」の大プロジェクトだった。従業員520名、事業所数24の中堅企業である。自社開発を何十年と行ってきた会社が自社システムを撤廃しメーカーシステムと直結するのである。いうなれば「母国を捨て海外移住する」そんな行為であった。
この時、直属の上司が逃げてしまい、現場リーダーだった僕は後輩2名と共に取り残された形となる。いうなれば指揮官を失った小隊というわけだ。
※実はこの上司、最終的には「社長」へと出世してしまう。僕は貧乏くじを引かされたわけだが、ここで重要なのは「貧乏くじ」という判断の一方で、「かけがえのない宝」を得ることが出来たのはなぜだろうか?それは最終的にプロジェクトが完遂し「成功体験」→かけがえのない財産となったから…そういえるのである。
助け舟はメーカーの推進チーム担当・男性3名と。メーカーシステム部の女性2名。また、プロジェクトの一翼を担ってもらったわけではないが、心のよりどころというべきか、後輩と共に仲の良かった経理部、総務部の後輩たちが見守ってくれていた。
※まる1年間、「〇〇さん、いつも社内を走ってますね」と後輩。僕は時短のために、宅配業者ではないが、頻繁だった1~2階の移動を必ず走るようにしていた。
一方、会社側の味方は無く、現場を含め、工場長・支店長は全て導入に反対という立場…こんな状況の中で、どうやって自分の身を守るだけでなく、会社からの評価も得ることができるのか?進退窮まった状態からの打開策は、それまでに自社開発で培った、工場長・所長などのネットワークだった。
1年かけた導入の苦労は並大抵では無かったが、これは一つの大きな成功経験となった。その後も、事業所経理担当の問題、クレジット担当、リーマンショック、社内コンプライアンス規定…と立て続けに危機が訪れたが、これまでの成功体験により何とか乗り切ることが出来たのだった。
今、改めて振り返り、これまでの自分を分析すると、ボーナスカットの洗礼を受けた際の状況は「危機・災難」であり、それは人生上の「未経験」であった。
誰しも「未経験」「やったことない状況」が降りかかれば、危機・災難と考えて引いてしまうものである。その「危機をチャンスに」「苦手を得意に」にできるのか?そのプロセスを20代前半に経験できた僕はラッキーだったというわけである。
ところが、これをラッキーだったと胸を張って言えるのは、これが「成功体験」だったからであり、そのためには常に「フィードバック」を行っていたから…といえる。
※もちろん全てが上手く行くわけでもなく、その後の人生で、挫折も諦めもあったのは言うまでもない。
還暦という年代になったが、よりによって…仕事で思わぬことを任されてしまうことは今でもある。いや、この先もいろいろあるだろう。頸椎骨折やメニエール、帯状疱疹、片耳失聴も同様である。
この時「いや~やったことありませんから…」で逃げ続けるのか、はたまた「これはチャンス」「何か面白いこともあるかも」「新しい機能開花」と捉えるのか…
→結局、最終的には「本人の資質」ということになってしまう。
【得意と思われがちな特技】
基本苦手分野;車の運転、スキー、歩行・ランニング、
得意分野;クライミング、フリーダイビング、絵画、写真、工作、歌唱、
【苦手なまま放置】ギター、ゴルフ、球技、
周囲から得意と思われている運転だが、実は自動車学校では苦労の連続。担当教官から「お前は免許を取っても決して運転をするな!」と釘を刺される。
運転に自信が持てるようになったきっかけは、1988年~4年間、自動車販売会社の車両センター勤務となり、毎日瀬ない敷地内で、膨大な数の車の移動を経験してきたからである。表を見ると、大学時代の1980年代に、自損他損含め6回の事故遭遇と、圧倒的に多い。
90年代、2000年代は経験も増え、圧倒的に事故は減少するものの、普通自動車の左側面の事故は多かった。2010年代以降は、貰い事故という感じが増加。