我々は実は見られていた(2024/11/22)

現在、僕は強いめまいによって①歩行困難。加えて②視界不良(手振れ防止機能を切った動画を見ている感じ)加えて③右耳の失聴(聾状態)と耳鳴りで、周囲の音は半分ぐらいしか聞こえない。

二本杖を突きながらトボトボ歩きで通勤すると、毎日必ず2~3件、不快・危険な状況に遭遇する。一度は駅のホームで人波に突き倒されたこともある。

こういったことを毎日のように経験していくと、今までになかった「もの」が見えてくる。例えるなら、それは「社会を俯瞰」してみるような感じであろうか。

これまでの僕は、自分の能力を向上させて、人が見れない光景を見ることに生きがいを感じていた。代表的なものは山岳スキーやフリーダイビングであるが、基礎スキー、カートレース、クライミング、そしてニュージーランド渡航、モンゴル・ハルハンゴル渡航も同様である。ある種、技能を磨いて、その世界に「侵入する」感じである。

一方、この度の状況は違って、ブッダの言った「放棄」(出家)に近いものかもしれないと思うようになってきた。失ったものも大きいが得られたものも多い。このような立場になってこそ見えてくるものがあり、日々、興味は尽きず、勉強させられる毎日である。

 

話は今年初頭に溯る。取引業者のNKSさん(60代)が、足の手術で長期入院したことがあった。退院後「長いこと迷惑をかけました…」と訪れたNKSさんの姿は、辛うじて歩行できる状態で、見るからに痛々しいものだった。

その時の会話で実に印象的なものがあった。
「いや~こんな身体の状態になって、本当に、つくづく世間の冷たさを感じました。特に若い女性はひどいですね・・・」

これには驚いた。そんなもんか??若い女性のマナーは最悪らしい。

僕はしばらく両親のこともあったし、戦前の話の聞き取りなどで高齢者との接点も豊富で、また、高齢者から道を尋ねられたり、また、座席を譲ることも多く、比較的、「弱者」の立場を理解していると自負していた。自身の経験からしても、世間はまだまだ捨てたもんじゃないと、ずっと思っていた。

ところがこのNKSさんの体験談である。実はこのNKSさん、やや風貌が怪しく(笑)、NKSさん自身に冷たくされる原因の一端があるのではないか?と思えたのだった。

いざ、自分が弱者の立場になってみると、直ぐにNKSさんの言葉が真実だとわかった。確かに若い女性はひどい。これには絶句である。日本の未来はあるのか?地球温暖化対策どころではない(そんな気がする)

弱者の立場となり、現時点まで述べ30日ほど通勤を行ったが、若い女性から受けた冷遇のカウントは増える一方で、件数を数えるのは意味がなく、止めた。

しっかりと件数を記録しているわけではないが、あくまでの弱者の立場で経験した不快・危険な行為は以下の感じである。(※そもそもの迷惑行為は除く)
・30代男性×1件(自転車で目の前を横切って行った)
・60代男性×1件(僕が清掃の邪魔をしていた)
・高校生~30代前半まで女性×60~80件?(毎通勤時、2~3件の積み上げ)
 →あまりにも極端な偏りがみられる。

一方、親切を受けた件数。
・20代男性×2件(電車内で座席を譲ってくれた)
・40代前~60代までの女性×5件(電車内で座席を譲ってくれた)
 ※ちなみに、第七頸椎骨折の後遺症から、座ると左腕が痺れてくるので、お礼を言って立っている。

実は僕の、この感覚的な統計で考慮すべき点は、他の世代・性別による意識である。例えば、僕と同じような立場の20代女性がどう感じているか?逆に上記、高校生~30代前半まで女性が、どこかの世代に親切にしてはいないか?などである。
また、20年前、30年前はどうだったのだろう?そういったことも考慮してみなければならない。

さて、危険行為とはどんなものか。
今の僕を例えるなら、通勤ラッシュの都市高速道で一人酔っ払い運転をしている状態である。ところが、対処法は周囲に避けてもらうしか無いのだから、周囲はたまったものではない。これが大前提である。

駅の人の流れは「上りホーム・下りホーム」「階段・エスカレータ」「南出口・北出口」といった「2方向への分岐」と人の流れの「交差」がみられる。
僕の最寄り駅の具体例だが、上り電車を降りて北口へ出る場合、左回りを維持できれば、然程、問題は発生しない。ところが、僕の場合、事務所の関係で南口へ出る必要があり、下りホームから北口へ流れる人々を横切る必要がある。この交差に一人の酔っ払いがいたとしたら、周囲は大変な迷惑となる。

この交差の際、僕は、①目で人波が追えない、②歩行スピードについて行けない、③確認のために頭を動かすと「ふらつき」が発生。結果、一旦、立ち止まる必要が出てくる。ところが後ろから次々と人が流れてくるので、立ち止まることも難しい。

ここに必ず、衝突、追突の可能性が発生する。この時の相手というのが上記の若い女性層が中心であり、罵声こそ浴びないが、すさまじい怒りの視線で睨みつけるのは、確実に上記女性層なのである。

この体験談を同僚に伝えたところ、今一つ反応が薄かったのだが、先のNKSさんと話をした際に、妙に意気投合してしまった。NKSさん曰く「病院内で車椅子であっても、絶対に避けてくれませんからね。」である。

本来、僕が迷惑をかけているのだから、冷遇されるとすれば男女関係無く、全通勤者の世代からまんべんなく受けるべきものである。
(※そもそもの迷惑行為については世代間の偏りは感じない。各世代ごとに迷惑な人間はいるものである…といった感じ)
(※車の運転でモタモタしてクラクションを鳴らされるとしたら、その相手は男性のみである)

この極端な偏りは一体に何から来るのだろう?オヤジ層が若い女性から嫌われている…ただそれだけなのだろうか。

一番ひどい想いをした事例を書いておこう。まだ町中の歩行に慣れていない初期の事例だが、事務所近くの歩道を歩いていた時のことだ。前方から20歳ぐらいの私服の女性5~6名が集団で歩いて来る。先方に避けるそぶりは全く無く、やや車道にゆとりもあったので、僕の方から歩道を降りて待機した。イレギュラーな動きでふらつきが発生。その時、一時停止の貨物車が目の前で停止したのだった。まだ状況に慣れていなかった頃だったので、「自分の身をいかに守るか」を本気で考えないと、今まで通りに振舞っていたら、いずれ大変なことになると痛感したのだった。

この時、僕が大きく道を譲ったのも理由だろうが、彼女たちから睨みつけられることはなかった。ただ、これ以降、彼女たちに「人相」とでもいうべき共通項が存在することに気付いた。

この時、僕は「実は我々は見られていた」ことを自覚したのだった。

→「正しく生きる

※この正しく…が、実にあいまいなのだが、「一生懸命」とか、そういったことになると思う。弱者にやさしくといったことは「正しく生きる」の範疇になるので、「聖人」になる必要はない。中道である。

(記述中…)