プルーク暴言A・007号「一軸走り・二軸走り?」

【プルーク暴言A】007号「一軸走り?二軸走り?」

プルークボーゲン006号で、自分のランニング歴に関して紙面を割いて書いたのには理由がある。それは、私がランニングに詳しい第三者の指導を受けて、自分の走りを確立したのではないからだ。
「ペンタ」に書かれていた東京大学名誉教授・小林寛道氏の話を多少は参考にしたものの、基本、ザックを担いで楽に走るには、006号で記述したような走りが合っていたのだ。つまり、身体に合う走りを自然に会得したのがポイントなのだ。

a.ザックで上半身と腰の動きを制限。肩のラインは動かせない。
  ヒジもあまり動かない。
b.しかし、ひねりを意識しているので、踏み出した足の側の腰は前に出た。
c.インナーマッスルを積極活用しようとすると、
  腰が「鼓」の様な回転を始めた。

そして、私はこれらのことを「背骨を中心とした一軸運動」だと解釈していた。

この走りを会得した瞬間のことは今でも忘れない。「おっ!なるほど・・・」という感じだった。参加者の誰もが成し得なかった「マッキーダンス」の腰の動きを会得したという満足感と共に、ペンタに書かれていた小林寛道名誉教授の話のようにランニングは背骨を中心とした運動だと確信した。
そして、この年の年末に出会ったのが、「二軸論とナンバ」だったのである。

 

【二軸論とナンバ】

2004年の師走。ふとしたきっかけで「二軸論とナンバ」を知る。当然のことながら、自分の経験から、咄嗟に私は「人間が二軸で走れるわけ無いだろう!」と思った・・・
脊椎動物である人間は、背骨中心の一軸運動ができるよう進化してきた。それは脊椎動物の祖先が魚だったからに他ならない。二軸歩行をしている生物があるとしたら、それは脊椎動物以外の何か別の生命体だ。四輪自動車のコーナリングでさえ、重心を通る中心軸をまず考えるのであって、その中心軸となるべき軸が左右に2つ存在するのは実に珍妙である。

その、二軸走法の代表格が「ナンバ走り」だった。

もし、人間が本当に二軸運動で歩いたり走ったりすれば、左の図の様な動きになる。重心は左右にうねり、安定しない・・・最も非効率的な重心移動を見せる。
この特徴ある動きは、コンパスを机の上でくるくる回す動きに似ている。歌舞伎に見る「飛び六方」の動きがこれに近いと思われる。

勧進帳 飛び六方(7分45秒附近より)
https://youtu.be/O2uuddGrtg0?t=96

狂言 瓜盗人
http://www.youtube.com/watch?v=ftP0m9Q_IGY&feature=related

 

もっとも、このようなコンパスを回すような動きを人間がするには、着地している足に重心を乗せ切らないと次の足は出せない。
つまり、重心と脚部が、一旦、1本の軸線上に位置する必要がある。
そして、反対の足を踏み出しながら、その足へ重心を運び、更に次の足を踏み出すことになる。その際、身体のひねりやねじれの動きが無ければ、重心は左右にれ、確実に踏み出した側の肩が下がる。これが「飛び六方」の動きになる。
しかし、飛び六方に代表されるような動きで、体力が温存できる効率的な走りや歩行ができるのだろうか?私には全くそうは思えなかった。

そこで、もう少し詳しく「ナンバ走り・歩き」を知るために数冊の書籍を購入する。

ナンバ走り古武術の動きを実践する」
「ナンバの身体論・身体が喜ぶ動きを探求する」
                                    矢野龍彦、金田伸夫他著、光文社
「身体意識を鍛える」高岡英夫著、青春出版社

 

ナンバ走りの解説書の疑問点】

上記の書籍に限らず、本屋で立ち読みをすると、ナンバ走りの解説書籍には、必ず共通する理論展開が存在することに気付く。おそらく話しの出所が同じなのだろう。それらを羅列すると・・・

①古来、日本人はその生活スタイルから、現代日本人と異なる歩き方・動作をしていた。それが「ナンバ」だという。その特徴は、踏み出した足と同じ側の肩が前に出る「ねじらない、ためない(踏ん張らない)、うねらない」・・・というものであった・・・らしい(※誰も見たことが無い)そして、必ずといって良いほど「飛脚の走る図」が引き合いに出される。

②昔の農民は走ることができなかった・・・らしい(※誰も見たことが無い)
そのため、西南戦争で薩摩軍に追いかけ回された新政府軍の、農民から徴兵された兵士が、多数切り殺される事態が発生する。そこで明治政府の政策により、腕を大きく振り、身体のひねりを多用した西洋式の歩行が取り入れられるようになった・・・(※立証の資料無し)そして次第に「ナンバ」のような走り方・歩き方は日本人の中から消し去られて行く。現代の学校教育において、体育の授業で走り方や行進の仕方を教えるのは、明治維新の流れを汲んでおり、現代の日本人の走り・歩きは、教育によって刷り込まれた動きである・・・だそうだ。

③そして必ずと言って良いほど、陸上の末續慎吾選手など、複数のスポーツ選手が引き合いに出される。

④ところが・・・昔ながらのナンバを行うのは不自然であり「現代のナンバは昔のナンバと異なる。」という逆説が突然入り、末續慎吾選手の走りはあくまでも「ナンバ」をイメージとしている・・・と、展開が変わる。そして、大抵の場合、現代の「ナンバ」は昔のナンバとは異なる・・・と結論付けている。

⑤そして、「ナンバ走り」の写真が多数登場するのだが、観察すると、どの写真も腰と肩はひねられており、全て一軸運動をしている。どこにも飛び六方のような形は見られないのだ。

 

【そんな時、新聞にナンバの記事が・・・】 

「ナンバ」に関して調べれば調べるほど、最新の陸上の走りと「ナンバ」を、無理やりにこじつけているだけではないのか?という疑念が強くなって行った。

そんな時、神戸新聞(2004年12月9日付)「時代のキーワード」というコラムに「ナンバ」の記事が掲載されていたのだ!

記事にはやはり他の書籍と同じ内容のことが書かれており、解説写真には「力走する末読慎吾選手。"ナンバ"を意識した腕の振りを取り入れた」と説明が付けられていた。

 

この写真を見た皆さんはどう思われただろうか?
現代のナンバは昔のナンバとは異なるとはいえ・・・これはないだろう!という感じである。「ねじらない、ためない(踏ん張らない)、うねらない」といった「ナンバ」の要素が、この写真からは全く感じ取ることができない
そこで私は神戸新聞社に問合せをしてみることにした。

(※種明しになってしまうが、2012年現在、Wikipedeiaで「ナンバ走り」を検索すると、どうしてこのような事態になったのか?が記述されており、経過が何となく判るのだが、2004年当時は知る由も無い。実際、末読選手の走りは、腕の振りが他の選手よりコンパクトで、重心移動が滑らかな「現代のナンバ走り」の要素を感じる走りである。)

 

【私はクレーマー?!】

私は意を決して神戸新聞社に電話をしてみた。すると時間帯が限られるものの、記事担当者と話が可能だということがわかった。今感じている疑問点を担当者にぶつけてみよう・・・何らかの結論が得られるかもしれない。
そして、緊張しながら指定の時刻に電話をすると・・・
担当の記者が出たのだが、回答は至ってあっけ無く「共同通信社から記事を買っているので、私にはわかりません。」との答え・・・
「しかし、記事を掲載している以上、内容を説明する義務があるのではないか?」と私が問うと・・・
「それなら共同通信社の担当者の連絡先を言いますので、そちらに電話をして下さい。」との返事・・・
なんだか話が変な方向に進み始めたぞ。

しかし、ここまで来たら後には引けない。共同通信社の記者へ話を取り次いでもらう形になり、またもや、私から電話をすることになった。しかし、東京まで電話をするとなると大事だ。口頭では話が上手く伝わらない可能性もあるので、疑問点を記述したFAXを共同通信社に送ることにし、返答先は私のメールアドレスとしておいたのだ。

 

続く・・・Schi Heil !!