【プルーク暴言A】011号「隠れたバランサーによる交差」
前回は、「現代のナンバ」といえる「ある種の走り方・歩き方」に見られる腕の使い方に関して分類を試みた。 すると、従来の歩き方・走り方に見られる腕の振りや蹴りの動作を、まさに肩がカウンタ―バランスで「肩代わり」している可能性が浮上してきた。
今回は、肩の動きの果たす役割の中から「ある種の走り方・歩き方」をするのに必要な動作というものを突き止めて行きたいと思う。
【結局、両者は同じなのか?!】
右図は、肩の振りが解りやすいように、異なる3種類の歩きをした場合の、肩の動きをモデル化している。タイミングは、右足の踵が着地した瞬間だと考えてもらいたい。
モデル1
腕の振りを大きく使い、地面を蹴って歩く一般的な歩き方を表す。
モデル2
「現代のナンバ歩き」を表現している。
「桐朋高バスケ部式ナンバ走り」はこれに該当する。胸の向きを進行方向に正対させれば、上体をぶれさせない動きと見ることもできる。
モデル3 効率の悪い「ナンバ歩き」をモデル化している。「飛び六方」が代表格。
興味深いことに、両極に位置するはずのモデル1とモデル2は、ある種の交差運動を使っているという点で同じ歩き方に分類できる。この点をご理解頂けるだろうか?
つまり、右足を出す際に右腕を後ろに振るのか、右肩を後ろに振るのか・・この違いである。裏を返せば、右足を出す際に、左手を前に出すのか、左肩を前に出すのか・・の違いでもある。
改めて言うまでもないが、「桐朋高校バスケ部式ナンバ走り」の写真を見てもらえれば、この肩の動きは一目瞭然だと思う。「現代のナンバ」では「うねらない、捻らない」ではなく、「うねるべき、捻るべき」なのである。
確かに、腕を振るのか肩でうねるのか?の違いは大きい。しかし、動作の目的は同じところにある。前に出す足のに反対側の上半身を活用するという点において、両者は同じ分類に入ると考えられるのである。
【肩によるバランサー】
では、腕を振らずに肩をうねる・・・には、腕だけを振ることに比べ何か別のメリットがあるのだろうか?
私は「ある種の走り方・歩き方」をする際、脚の蹴り出しではなく体重移動による前進がポイントになると考えている。また、上半身の肩という重量物と、脚部の動きに共振のリズムの様なものが生じているように感じる。
この共振のリズム体感するには、手に鉄アレイを持って「現代的腕振り歩き」をしてみれば良くわかる。腕の振りに合わせて歩いてみると、同調して足が前に出るのが感じられるはずだ。 つまり、「現代的腕振り歩き」をしているにもかかわらず、「ある種の走り方・歩き方」と同じ状態になってしまうのだ。
※鉄アレイを持つ理由は、腕だけでは少し重量が軽過ぎるように思われるからである。
そして、この鉄アレイの重さを変える事で、腕振りのリズムも変化する。つまり歩を出すリズムを変化させることができるというわけだ。つまり鉄アレイを持った手は、歩行のバランサーというわけだ。
また、この点を踏まえて考えると、前回挙げた「腕振り」を考えてみると、歩幅や肩の振りのリズムに適合した腕振りが存在することもわかってくる。
一例を挙げると・・・
・ピッチの小さい時 お手玉、胸の前でクルクル
・ピッチの大きい時 ヒジを中心に回す
・・・などである。
但し、この場合、あくまで腕の動きは肩の補助動作だということを念頭に考えて頂きたい。更には、腕も肩も使わず、背中の荷物をバランサーとして使うことすら可能になる。
(※応用例;沖縄舞踊のカチャーシーを応用した肩と腰のラインの崩しによる、上体と下肢の軸線をずらす方法)
こうして考えると、肩をうねって歩くということは、肩が脚部に対してカウンターバランスの役割をしている可能性も見えてくる。表現が難しいが、脚部のバランサーである肩の動き・・・そして、その肩の動きに対するバランサーである腕の動き・・・である。バランサーは反対の動きをするから、結果、脚部(出る)→肩(引く)→手(出る)という順で、出した足に対して同じ側の手が出ることになり、これが「ナンバ論」を混乱させる原因の一つになっていると思われる。
結局、「ある種の走り方・歩き方」をするには、鉄アレイを握った手だろうが肩だろうが、バランサーとなるものがあれば良いことになる。混在して欲しくない点は「現代的腕振り歩き」は、腕の振りを脚部の蹴り出しの反動として使う点である。
【陥りやすい錯覚】
先に「ある種の走り方・歩き方」は「うねるべき、捻るべき」だと書いた。私がこの走り・歩きをする際に一番意識するのは、自分の身体を二等分して、竹馬の様にイメージすることだ。
そう意識することで、必ず同じ身体の側の腕と脚部に同調した動きが発生する。それが左図である。
これはこれで正しいのだが、手足の同方向の同調した動作が、ともすれば「右足を前に右手を前に・・・」の、飛び六方的な「ナンバ」を実現しているかのような錯覚に陥る。この錯覚が現在のナンバ論が混乱する第2番目の原因ではないだろうか。
下図は飛び六方的な動きをモデル化している。
両図を見比べて頂ければわかるように、いわゆる「ある種の走り方・歩き方」の方には、体幹部に一種の交差が生じていることがわかる。これが重要なポイントだ。
恐らく、この交差の動作にインナーマッスルの果たす役割は大きいと思われる。 また、交差の中心は、肩のラインの直ぐ下辺りから股関節の附近まで、様々な位置に移動させることが可能である。
私がザックを背負って走りながら感じた「鼓のような腰の回転」は、まさに腰に交差の中心があったのだろう。
そして、交差の中心の位置によっては、上体が静止したように見える場合がある。つまり、状況によっては気が付かない隠れた交差が生じることも多々あるということだ。ゆえに「うねらない。捻らない」と錯覚してしまうのかもしれない。
このように考えると、現代の「ナンバ走り・歩き」が「六方・ナンバ」でなければならない理由は、ほぼ消滅してしまうのである。
では、なぜ「ある種の走り方・歩き方」が「ナンバ走り」と呼ばれるようになったのか?それは、その走りに至るヒントが「ナンバ」にあったからではないか?と思う。
私の場合、ザックを背負って走ったことで上体の動きが抑制され、その中で楽に走るためにインナーマッスルを活用した体幹の交差運動を自然に身に付けた・・・命名するなら「ザック走り」となるだろう。
同様に、「六方・ナンバ」で上体の動きを抑制すると、トレーニングを繰り返すうちに、いつしか気付かないうちに体幹の交差運動が導き出されるのかもしれない。そういった過程で「ある種の走り方・歩き方」が導き出されたとしたら、それを「ナンバ走り」としてもおかしくはない。(※正確には「六方走り」と命名すべきだった。)
なお、フォローするわけではないが、「ナンバ論」の代表格である2つの書籍だが、古武術的動作の紹介や、「ある種の走り方・歩き方」を会得する為のヒントが数多く掲載されている。「六方・ナンバ」のことさえ意識しなければ、「現代のナンバ」を素早く身に付けるためのエッセンスが盛り込まれた著書になっている。
・「ナンバ走り・古武術の動きを実践する」矢野龍彦、金田伸夫他著、光文社
・「ナンバの身体論・身体が喜ぶ動きを探求する」矢野龍彦、金田伸夫他著、光文社
何より、私自身が知らない間に「ある種の走り方・歩き方」を実践していたことを自覚したのは、これらの著書を読んだから・・・だったのだ。
続く・・・Schi Heil !!