スキー場の混み具合②

前回、スキー人口とスキー場の混み具合に関して調査したことを書いた。今回はそのスキーバブルに端を発した問題に関連して、日本人のスキー&レジャー感覚について書いてみようと思う。

「スキー客の減少」というトピックスと検索すると、決まって「スキーバブルの象徴」として取り上げられるのが、映画「私をスキーに連れてって」である。社会現象の発端となった、いろんな意味で伝説的な映画である。この映画のヒット無くしてスキーバブルは存在しなかった。

イメージ 1この映画、スキーバブル世代の私に取ってバイブルの様な存在であった。それでいて今、映画好きの視点から見ても、「おもろい映画」だと思う。

この映画にはそれまでの映画に無い、いくつかの象徴的なシーンが存在する。革新性・奇抜さとでも表現できようか・・・。

それでいて、実は徹底的なマーケットリサーチの結果を踏まえ製作された、戦略的な映画でもある。つまり、どういった世代がどういったことをしているのか?それを事前に徹底的に調査したというのだ。

結果、奇抜で夢見心地なストーリーであったにもかかわらず、当時の若者世代に圧倒的な支持を得るに至る。もちろん私もその一人であった。(映画の詳しい考察は割愛するけど・・・笑)

映画が封切られた1987年末は、日本経済はバブル中期に差し掛かった頃でもあり、日本全体が上昇ムードにあった。我々若者も、余暇の過ごし方=リゾートの有り方が、この映画のように変わって行くものだと信じていた。

実際のスキーバブルの絶頂期は、経済的バブル末期の1992~1994年に訪れるのだが、それがF-1ブームと重なっているのは単なる偶然ではないだろう。1987年当時、映画の主人公と同じ24~26歳だった若者達が結婚し、それぞれに家庭を持ちながら生活の中心をレジャーから家庭へと移行して行った・・・そんな時期に重なっているように思える。
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そもそも・・・・。
スキーとはお金と労力、時間の掛かるレジャーである。現在の日本社会の措かれている状況にあって、スキーを継続して行うにはいろんな面で負担が大きいのも事実だ。

私のようなSkiBum・・は別としても、スキー・スノボをレジャーとして続けられるのは、ごく限られた環境の人々に限られるように思う。
ランニングやサイクリング、ゴルフのようには行かないし、「山ガール」に代表される「都市近郊登山」とも異なるように思う。


現在、私はスキー歴25年になるが、スキーの本当の楽しさを実感できるようになったのは、スキー歴15年を過ぎた頃からだった。それからはスキー無しでは生きて行けないような状況が続いているのだが、仮にそこまでのめり込まなくても、老若男女、年齢を問わずスキーは楽しいものだ。だが、その楽しみに至るまでに数々の制約が存在する。(その制約が面白いとも言えるのだが・・・)

まず、スキーは非常に環境依存度の高いレジャーである。当然のことながら雪が無ければ始まらないのでシーズンは12月から5月のGWまでの5ヶ月間が基本となる。特に1990年以降、温暖化の影響によりシーズン期間にムラが生じている点が、スキー・スノボ人口の減少に拍車をかけているように思われる。

そして、雪の無い太平洋沿岸の都市部の人々は、長時間の移動を経て雪のある日本海側・山岳部へと移動しなければならない。JRシュプール号に代表されるように、電車・バスなどの移動手段もあるのだが、都市部のように頻繁に本数があるわけでもない・・・。

イメージ 3そこで便利なマイカーの利用・・・となるわけだが、いざマイカーで行くにしても長時間の運転に耐える必要に加え、雪道の運転・・・という危険性が存在する。そうなるとタイヤはスタッドレスにしなければならないし、できれば4WD車の所持が望まれ、経済的負担も増加する。

そうまでしてスキー場に着いても、穏やかな天候の日ばかりではない。当り前のことだが雪が無いとスキーは出来ないのだから吹雪は当然。ひどい時には雨も付き物だ・・・。登山であれば延期するような天候でもスキーはやるわけだから、スキーは野外レジャーの中でも最も過酷な環境で行うものだと言える。

加えて「転倒」という難問が存在する。以前、奥神鍋スキー場の看板で「転んでも楽しい・・・」というフレーズがあったが、転ばない方が楽しいに決まっている。(もちろん、転んでも楽しい点が不思議な魅力でもある。)
後で詳しく述べるが、日本人は欧米人に比べ、スキーや乗馬などのバランスを必要とするスポーツに於いて、そこそこ楽しめるレベルになるまでに時間かかってしまう。この点も見逃せない。

そしてとどめは、リフト待ち、高額なゲレンデレストランでの待ち、帰りの渋滞、翌日の筋肉痛である。

このように、スキーを行うには様々な制約があり、誰もが行えるレジャーでは無い。ではなぜスキーバブルの時代、皆がこぞってスキーを始めたのだろう?それは「私をスキーに連れてって」という映画が、男女のお付き合いに関する一つの指針として、当時の若者世代に広く受け入れられた結果だと思う。つまり、若者の間で、映画の中の世界を再現することが、一つの人生目標となったわけだ。要は、種の保存の欲求がスキーの制約を上回ったということだ。

イメージ 4事実、現在でも私がスキーを趣味にしているのを知ると、誰もが決まって「女性と知り合うきっかけが、めっちゃあるんとちゃうん?」と言う。その度に釈明をするのが大変じゃまくさいのだが、こういった周囲の発言には今でもギャップを感じると共に、「私をスキーに連れてって」という映画の影響の大きさを強く感じる瞬間でもある。
ちなみに「私をスキーに連れてって」の製作に当っては、前述の通り1986~87年頃の若者のスキースタイルを徹底的にリサーチし、映画のターゲットゾーンを26歳と定めたという経緯もある。この時代、既に映画の世界そのままのスキーヤーが存在したのも事実だろう。

一方、スキージャーナル誌364号(1998/1月)には「何がスキーヤーを遠ざけたのか?」という特集記事がある。今から15年前、既にスキー客の減少が深刻な問題となっていたのだ。折りしも、スノーボーダーが爆発的に増え始め、全国のスキー場で次々とボードが解禁になった時期でもある。

読者アンケートを読むと大変興味深い。実は、スキーバブル期であっても、スキーは一般庶民にとって高嶺の花だった・・・のだ。高額で時間もかかり、思うように上達しないスキーというスポーツ(レジャー)に、皆、飽き飽きしていたという事実が、今更ながらにアンケートを読むと、実に良くわかる。

結局、「私をスキーに連れてって」を見て飛びついたものの、4~5シーズン経った頃には結婚や出産。また、技術的な頭打ちもあって面白味も薄れ、投資に見合った満足感を得られないまま、皆、ゲレンデを去って行ったのだ。実はこの時点でカービングスキーが登場し、スキーヤーに技術向上に一役買うと期待されたのだが、2003年のSAJのスキー教程の大幅改定も、結局はスキー界の流れを変な方向にしてしまい、裏目に出てしまう。

私自身の事を書くと、1995年頃に技術的に頭打ちとなり、ひょんなきっかけでスキー検定を受け始めた。
2級は順調に取れたものの1級は手強かった。それがかえってスキーにのめりこむ結果となってしまった。
2000年に1級という目標を達成した時、少し虚脱感を感じたものの、直ぐにNZへの海外スキーや山岳スキーと巡り合うことで、ますますスキーの面白味を知ることとなり、のめり込んで行くわけだ。2000シーズンに八方尾根の佐々木徳雄氏というスキーの師匠に巡り合ったことも大きい。

考えれば、1996年にとある女性との別れがなく、そのまま私が家庭を持っていたなら、やはり私もゲレンデから遠のいてしまった組になっていただろう。欧米との文化的な違いもあり、日本では家庭を持ったままスキーを続けるのは難しい。その点、欧米ではスキーが長期休暇の中のリゾートとしてしっかりと位置付けられている。このような違いが、現在の日本のスキーレジャーが抱える問題の根源にあるのだと私は考えている。


Schi Heil !!