スキー場の混み具合③

前回、前々回とスキー場の混み具合の調査、スキーバブルと「私をスキーに連れてって」へと話を展開させてきた。今回はもう少し話題を掘り下げて、日本のスキーブームについて調べてみようと思う。

日本における3回のスキーブーム。その第3回目のブームであるスキーバブルは、映画「私をスキーに連れてって」の影響を受けた若者世代の急増によってもたらされた。折りしも、日本は高度経済成長期から続く、バブル景気の最終段階。地方はこぞってスキー場を建設するわけだが、その結果、スキーバブルがはじけた後に、スキー場の数のみが過多となり、結果、深刻な来場者不足を招いてしまう。ある意味、過剰な設備投資の遺産を引きずっているような・・・これが現在、日本のスキー場が抱える大きな問題となっているように思う。

イメージ 11995~2000年にかけてのスキージャーナル誌を見ると、
1995年には既にスキー人口の低下が懸念され、1998年には、かなり深刻な問題として取り上げられているのがわかる。それから15年、解決策もないまま、現在でもスキー・スノボ人口の低下は続いている。

確かに、前出の図を見ると1994~96年に落ち込みがある。
逆に1998~99年には再び山が存在する。この山が何だったのか?明確な記憶は無い。むしろ谷が、関西地方では雪不足と阪神淡路大震災とが重なっていた可能性はある。

私が最大のリフト待ちを経験したのは1990年のハチ北だった。恐らく優に1時間は超えていただろう。11回の回数券が余った記憶がある。その後、1999年頃にベースを29号線エリアの若杉大屋に移すまで、9号線沿線でのスキーを続けたが、2月上旬の日祝のリフト待ちは20~30分はあったように思う。また、スキー場の営業終了後、普通に帰宅すると神戸まで優に5時間はかかった。その為、食事をして温泉に入り、仮眠をして23時頃から帰宅するという作戦を取ったりもした。

ここ数年、スキー・スノボ人口は、スキーバブル以前のスキー人口と変わらない値で推移しているのだが、若者のレジャー志向の変化や暖冬による雪不足、回復しない日本経済の影響もあって、スキー場来場者数は年々減少し続けている。そこで昨シーズンぐらいから、各地のスキー場では、スキーバブルの頃にスキーを始め、子育て中の世代を、ファミリーごとスキー場に呼び戻そう・・・というキャンペーンが催され始めた。バブル世代の再誘致はスキー場の来場者数UPの切り札となるのだろうか?

そもそも、スキー人口の減少に関する諸問題に関して、まず先に考えなければならないのが日本人のスノースポーツ、スノーリゾートに対する考え方だろう。バブルの時は、たまたま映画のヒットに合わせて「新人類世代」の若者の来場が爆発的に増えた。この時期にスキーを始め、シーズン中、4、5回程度スキー場に行くスキーヤーにとって、スキーとは映画のようなお付き合いをするための道具であり、それ以上のものとは成り得なかった。
また投資に見合う程の見返りもなく、技術的な頭打ちもあって、目的を果たした人も果たせなかった人も、結果、ゲレンデから去ってしまった。


では、スキーバブル以前のスキーブームはどうだったのか?
第一次スキーブーム、つまり昭和初期のスキーに関しては、各地の老舗スキー場の変遷を検索することで比較的容易にヒットする。
【画像で見る長野県スキーの変遷】
http://www.shinshu-tabi.com/ski100/rekisi-ph.html

戦前のスキーは、三浦敬三さんに代表されるツアースキー(山岳スキー)が中心だった。それでも敬三さんの著書には、宮城県八ッ森スキー場が、日曜日はスキーヤーで混雑していたという記述がある。

また、「単独行」で有名な加藤文太郎も戦前スキーヤーとして有名だ。神戸の好日山荘島田真之介によると、それほどスキーは上手ではなかったとのことだが、「単独行」には、当時、既に鉢伏高原や扇ノ山周辺にスキー場があったとする記述があり、若桜スキー場、神鍋山(現在のUP神鍋)スキー場の名も見られる。

驚くべきことに、小津安二郎監督「
学生ロマンス 若き日」(昭和4年製作)は、戦前の学生スキー映画である。
無声映画だが、内容的には戦前の「わたスキ」のようなものだ。学生スキーヤーが女性スキーヤーを追いかけて赤倉スキー場まで行く話である。随所に当時の学生スキー事情が垣間見る事が出来る。昭和4年と言えば私の父の生まれた年・・・今から84年も前の話だから驚きだ。あと60年もすれば「私をスキーに連れてって」も、平成スキーを知る資料となっているかもしれない。

珍しいところでは、戦前は各地にサンドスキー場が存在したことだ。その資料となるものを見つけれないのだが、知る所では千葉、知多、白浜など、全国に数ヶ所ほどあって結構な盛況振りだったらしい。

戦前の千葉のサンドスキー関しては、スキージャーナル誌の連載「スキー百景」394、395号(1998/11)に詳しい。コラムを担当した金井英一氏は、昭和9年にオープンした「御宿サンドスキー場」のオーナーの息子で、スキー技術をサンドスキーで学び、野沢温泉スキー場で雪上の1級に合格している。

金井氏によると、この時代、スキーヤーの中心は雪国出身の大学生か、汽車賃無料(・・らしい?)の国鉄職員、都市部の裕福層坊ちゃん嬢ちゃんだったという。リフトは存在しないから、出費の大半は高額な汽車賃だったという。金井氏の場合、1シーズンにかかる出費は現在の額にして100万以上かかったそうだ。(千葉の太平洋側だから当然か・・・)また、当時「登山とスキー」という
月刊誌が存在したという記述もある。裕福層に限られていたとは言え、スキーという言葉が比較的、世間で一般化していたことがわかる。

現在、
ネット上で検索しても戦前の
「御宿サンドスキー場」の情報は全くヒットしない。以前は金井英一氏直々のサイトも存在し、一度だけメールのやり取りをしたこともあるのだが、2004年に亡くなられたようだ。

一方、知多半島の「内海サンドスキー場」に関しては、戦前の状況を克明に調査したサイトが存在する。
管理人さんの探索で当時の盛況振りが良くわかる大変良いサイトである。
内海サンドスキー場
http://underzero.net/html/tz/tz_360_1.htm

以上、私の知る限り、第一次スキーブームというのは、登山と同様、裕福層によるクラブスポーツの延長のようなものだったという印象だ。当然、マイカーなどは無く、スキー場への移動は汽車が主流だったので、汽車の車内や駅前、宿場町は相当な混雑があったらしいが、ゲレンデにリフトは存在しない時代なので、スキー場の込み具合は、込んだ・・・と言ってもスキーバブル期のようなものではなかったであろう。


では、第二次スキーブームはどうだろう?
若大将シリーズに代表される昭和30年代のスキーブームでは、既にスキー場のリフトも完備しており、芋の子を洗うようなゲレンデの混雑ぶりを示す写真や映像がネット上で多数検索できる。

【1960年代のゲレンデ】
http://www.youtube.com/watch?v=jtAJVfI3GSg
伊吹山スキー 昭和38年】
http://www.youtube.com/watch?v=ri186BNdOSE
【昭和41年山形県蔵王スキー場」】
http://www.youtube.com/watch?v=qmjNetgpnb0

当時もマイカーによるスキーはまだまだ主流ではなく、もっぱら
列車、バスによる移動が中心であった。マイカーによる移動がポピュラーになるのは、昭和40年代後半に入ってからである。

この頃の特徴として職場でバスを借り切り、スキー場へ行くことが良くあったようだ。
当時、都市部には昭和30年に始まった
集団就職による若い労働者が多数存在した。いわゆる「金の卵」と呼ばれた人々である。家族から離れ、会社の寮やアパートで一人暮らしをする彼らのために、レクリエーションの一環として会社単位の運動会やクラブ活動が盛んに行われることとなる。私が務めていた会社にはなんと相撲部があったぐらいだ。そういった時代背景もあり、会社のサークルや労働組合の催しなどでバスを借り切り、大所帯で行くスキーツアーが盛んとなったらしい。

このように調べてみると・・何となくそれぞれのスキーブームの違いがわかってくる。
私の感じている雰囲気をまとめてみた。

第一次スキーブーム;昭和5~10年頃まで??
きっかけハンネス・シュナイダーの来日
【時代背景】国民の大半である農民は貧乏。中学校~帝国大学に進学可能な裕福層のみスキーが出来た。
【交通手段】汽車、乗り合いバス、人力車

第二次スキーブーム;昭和30~40年??
きっかけ】昭和31年、猪谷千春のオリンピック銀メダル、トニー・ザイラーの来日

映画、アルプスの若大将、ニュージーランドの若大将など・・・
【時代背景】集団就職による都市部の人口増加。サークルや労働組合の行事が盛んだった時代。
もしかすると、スキーバブル直前までが第二次スキーブームの可能性がある。・・・だとすれば、
レジャーとして一番、日本らしくて上手く行っていた時代かもしれない。
【交通手段】夜行スキー電車、バス、一部でマイカ


第三次スキーブーム;スキーバブル
きっかけ】映画「私をスキーに連れてって
【時代背景】バブル景気。スポーツ・レジャーというより合コン感覚?!
【交通手段】マイカー、JRシュプール号、バスツアー



ちなみに私の勤めていた会社でも1990~1998年まで組合主催のスキーツアーが毎年、行われていた。
まさにスキーバブル期の話である。そんな当時、職場の先輩から昭和30~40年にかけて盛んに行われたバスによるスキーツアーの話を良く聞いたものだ。意外なことだがスキーバブル期が終焉を迎えてなお、1998年
(H10)頃までは、この昭和30~40年にかけてスキーツアーの余韻が残っていた。

ところが、この1998年(H10)以降、会社のスキーツアーに人数が集らなくなり、廃止となってしまう。
理由はいくつかある。まず職場単位でのスキーツアーが一般のツアーより安くならなかったこと・・・旅行業界のことは詳しく判らないが、現在、2~3万程度のハワイ旅行が存在するように、当時、2万程度の北海道ツアー等が出始め、気の合う4~5名で行くツアーへメンバーが流れてしまった。

この頃の新入社員を「ポスト団塊ジュニア世代」と呼ぶ。彼らの特徴として、気の合う仲間と過ごす時間を重視し、会社という大きな枠での行動を嫌う傾向があったように思う。
もっとも、新人類と呼ばれた私の世代も、個人と会社を分けて考える傾向は強かったが、会社という括りも、「付き合い」としてある程度、大切にしていた。
ところが1997年以降に入社した世代から、会社と個人を完全に切り離す傾向が一層強まったように感じられる。
この頃から会社の主催する行事への若手社員の参加が極端に少なくなり、廃止となった行事がいくつも存在した。近年、その傾向はますます強くなっているのだろう。

1996~1997年当時、ほとんど全国のスキー場でボードが解禁となり、来場者のボーダー比率が一気に増えた。「新人類世代」がスキーに飛びついたように、「ポスト団塊ジュニア世代」はスノーボードに飛びついたわけだ。就職氷河期の彼らは総じてお金が無い。ゲレンデの食事はコンビニの弁当やカップ麺で済ませる。そんな彼らをターゲットに安価なスノボツアーが販売されたのがこの頃だった。

このように、若者のスキー場への誘致が進まない中、かつてスキーを経験した世代を、ファミリーでスキー場に呼び込もう・・・というのが、新しい作戦なかもしれない。

※余談にはなるが、1998年(H10)に自殺者の急増があり、その後も減少することは無く推移している。
この時、銀行の貸し渋りなどで倒産する中小企業が相次いだ年である。


Schi Heil !!