【プルーク暴言B】004号

【プルーク暴言B】004号

前回、003号では、スキーとスノーボードが登場した時点のサイドカーブの使いについて考えてみた。今回は、スキーがスノーボード影響を受けサイドカーブが強くなった原因の一つとして、当時のスキー界を取り巻く状況を考えてみようと思う。

少し話を戻そう。スノーボードの登場から約20年ほどの間、スキーとスノーボードサイドカーブは全く相容れないままだった。そもそも、スキーとスノーボードでは求められる要求が違うのだから、違ったままで良かったはずだ。また、仮に必要とあらば、工作技術的側面では戦前でもカービングスキーの製作は可能だった。
・・・にもかかわらず、90年代後半に、突然、カービング革命と呼ばれる変化が起きたのだろう?
(※)003号にも少し書いたが、Gに耐えるための硬いプラスチックブーツの一般化が関係しているのは言うまでもない。

 

【スキー製造者の着眼】

80年代から90年代にかけて日本は世界最大のスキー消費大国であった。

90年代後半、欧州で生産されたスキー200万台/(1シーズン)中、約半数の100万台が日本に流れたという。その頃、欧州では80年代初頭から続いたスキー不況のあおりでスキーメーカーは苦境に陥っていた。日本のスキーバブル崩壊の10年前の話である。その欧州のスキー不況を支えたのが、80年代後半に始まったヨーロッパのスノーボード・ブームであり、スキー大消費国ニッポンの存在だった。
(※)デモ・モデルというタイプのスキーは欧州には存在しない。日本独自仕様である。

実は90年代初頭、日本でもスキーメーカーがスノーボードを製作・販売するようになっていた。そんなメーカー側がスノーボードサイドカーブに着目したのは自然な流れであったように思う。

1997シーズン、オガサカからカービングスキー「Keo's」が発売されたが、同時にスノーボードも生産・販売され始めた。この話は、日本のスキーメーカーの老舗的存在であるオガサカが、カービングスキースノーボードを同時進行で開発した・・・という可能性を示唆しているように思う。
(※)トップ機種にカービングスキーを登場させたのは1997シーズンモデルのオガサカが世界初である。

にわかに降って湧いたようなカービングスキーの登場だったが、実は90年代後半、既にトラディッショナルスキーのサイドカーブにも変化が起こっていた。カービングスキー出現前夜の1996シーズンモデルでは、トラディッショナルスキーといえども、カタログ上写真でサイドカーブの存在が判別可能なほどになっている。

中にはミズノSモード(1996モデル)のように、足元部分のエッジに限ってRが13mと、現在のカービングスキーと謙遜がないモデルすら存在した。

一方のカービングスキーだが、1992年頃、既にエランとクナイスルからカービングスキーが販売されていた。

・・・にもかかわらず、その後5年間、市場では全く見向きもされなかった。

事実、1996シーズンのカタログでは「カービング」という言葉の欠片すら存在しない。ところが、1997モデルでは下位モデルに限って、突如、降って湧いたように、各メーカー横並びでカービングスキーが販売されている。

 

◆年表にまとめてみると

90シーズン
・クナイスル、ビッグフット(スキーボード)

92シーズン頃
・エラン、クナイスルから2機種。

94シーズン(93-94)
・技術選大回り規制
・宮下征樹によると、既にこの時期、
 選手専用モデルにカービングタイプがあった。

95シーズン(94-95)
・市場のカービング的動向は一切無し。相変わらず
 エラン、クナイスルから2機種のみ。
・オガサカ、緑色の選手専用プロト。

96シーズン(95-96)
・WC、GS種目優勝、M.フォン.グリュニーゲン
   (公式にはトラディッショナルスキーの使用。)
・猪又一之、技術選優勝。白色の選手専用プロト。

97シーズン(96-97)
・オガサカKS「Keo's」
・各メーカー、下位機種に限りカービングモデルのラインナップ
 (FUN、ニューコンセプト、ニューサイドカット)
・宮下征樹、カービングスキーの使用により技術選2位。
 カービング世代と呼ばれる。

98シーズン(97-98)
・各メーカー、トップ機種にカービングモデルのラインナップ。
 後に「カービング元年」と呼ばれる。
・WCにて、H.マイヤーの大活躍。レーシング・プロトタイプの
 アトミックβ9.28(市販モデルとは別物)
・個人的に、12月・カービングスキー体験試乗会に参加。

1998シーズンモデルから各社共にトップ機種のカービング化に踏み切った理由は、オガサカKeo'sの成功と、下位カービングモデルが一般スキーヤーに好評だった結果からであると考えられる。

しかし、1997シーズン、各メーカーが一斉に下位機種にカービングモデルをラインナップするには、それなりの勝算がなければならない。水面下でいったい何があったのだろう?

1996年の技術選、オガサカのカービング・プロトタイプの存在が猪又一之を優勝へと導いたとされる。このプロトタイプは1994年から技術選に導入された「大回り規制」に対応するため開発されたという。

しかし、1997年の技術選で2位になった宮下征樹によると※、彼は1994シーズンから既に選手用カービングスキーを使用していたという。そのカービングスキーで彼は学生時代、インカレ4位、国体2位、全日本選手権で11位という輝かしい成績を残している。

つまり、オガサカが1996年の技術選においてカービングスキーのプロトタイプを準備したのは、オガサカ独自の行動ではなく、欧州を含た他のメーカー全体の流れだった可能性が無視できない。
もし、この時期、既に選手専用モデルがカービング化していたならば、WCの1996シーズンのGSを制したM.フォン.グリュニーゲンの洗練されたターンも、実はカービングスキーによるものだった可能性が見えてくる。
※SJ誌1997年8月号の「スキー技術対談・トップの視点」による。
※この件に関しては、2014/10/20に宮下征樹さん本人と連絡がつき、当時、未販売の選手用カービングモデルを使用していたことが確認出来た。

このように、90年代前半、スキーメーカーがスノーボードも製作するという環境下で、スキーとスノーボードの垣根が徐々に取り払われ、いつカービング革命が起きても不思議ではない状況下にあったと想像される。

余談になるが、雑誌などで、選手がスキーを小脇に抱えて表彰台に立つ写真を良く見かける。しかし、選手が手にするスキーが、実際に使用したものではない来季販売モデルだったりするのは良くあることだ。

例えば、95~98シーズンにかけてのWCではアトミック旋風が吹き荒れ、表彰台ではアトミックβ9.28というモデルを抱えて写真に収まる選手の姿が多々見られた。アトミックβ9.28は「かまぼこ」を2つ並べたような独特の構造をしており、見た目にも特徴が明らかであった。しかし、選手の使用していたスキーは、表面にそれらしい立体的デザインのプリントが施されたものだった。

ところで、カービング元年以降、各スキー専門雑誌では、読者の購入意欲をそそるような、数々の特集が組まれるようになる。

一般レーサーをモデルに起用し、カービングスキーとトラディッショナルスキーの履き比べを行なってタイム差を検証したり、1、2級受験者にカービングスキーを履かせて模擬検定を行なう・・・といった記事である。

しかし、既に選手用プロトタイプで、カービングスキーが実績を挙げていたのであれば、今考えると、そんな記事は無意味だった。事実をそのまま記事にすればカービングスキーの有効性の証明になったはずだ。

ところが、これをやってしまうと、過去に組んだ技術解説の記事は全てウソになってしまうし、また、選手の活躍を足元を支える革新的スキー・・・の構図に水を注すことになってしまう。

こんな複雑な事情が90年代前半にはあったのだ。まぁこれは現在でも同じだろうけど・・・

 

【整地ゲレンデの状況】

一説によると、90年代前半のスキーバブルの影響もあって、ゲレンデのピステン性能が向上し、固くて均一なゲレンデが造られるようになったという。これが、スノーボードの普及に拍車をかけたとされている。
(※)現在のところ高エビデンスの資料無し。今後、この関係の資料を探すこと。

 

スノーボードの描くターンへの憧れ】

スノーボードでは、比較的簡単にカービングターンが可能だったのだが、トラディッショナルスキーではカービングターンが難しかった。これは紛れもない事実である。

かなりのスキー上級者でも、スノーボードの様なシュプールを描くのは困難だった・・・それは、当時を振り返って断言できる。私自身も当時、スノーボーダーの描く、細くて深いシュプールを見て、「何であんな風に滑れるんだろう??」と驚嘆の思いで眺めていた。他のスキーヤーも同様だったことだろう。

この写真は私が所有するスキー雑誌(1991年)のスノーボード紹介記事だ。

このように、深い内傾角でカービングターンを決める彼らの滑りを、私はスキー場で目の当りにしながら、何とも言えない憧れを感じたのは事実だった。例えるなら、バイクを深く倒してコーナーを攻めるような感じだろうか?

私がスノーボードを初めて見たのは1989年~頃、兵庫県のソラ山スキー場(現;スカイバレー)である。ソラ山と、隣接する東ハチ伏スキー場(現;ハイパーボウル東ハチ)の両スキー場は、スノーボードの滑れるスキー場としては関西では老舗的存在だった。

余談だが、上のような経緯もあり、私自身のスノーボード初体験は、ブーム以前の比較的早い時期の1992年だった。(※勤めていた職場でのスノーボード体験第1号である)

ちなみに、スケボーもやっていた私が、スノーボードに転向しなかった理由は単純である。当時は量販店で、シーズン落ちの安価なスノーボードが販売されてなかった・・・ただそれだけの話だ。もしも当時、安いスノーボードが手に入ってたなら、今頃はスノーボーダーだったかもしれない。

 

カービングターンの神格化への流れ】カービングの方が偉い・・・

我々スキーヤーもボーダーも、漠然とカービングターンができることが上級者のシンボルだと考えている。初心者がスキッドから初めて、次第にズレの少ないターンへとステップアップして行く過程で、カービングターンが上級者のものだと考えるようになってしまうのだろう。

しかし、こういった自然な流れ以外で、カービングターンが意図的に神格化された時期があったように思う。

今回のことでいろいろと調べてわかったのだが、基礎スキー界でカービングターンが注目され始めたのは、この30年ほどの出来事である。特に、「カービングターン」という言葉が頻繁に使われ始めたのは、カービングスキーが登場した1997~98年頃の話である。新語とまでは言わないが、それまでカービングターン自体、それほど話題になっていなかったのだ。今では信じられない話だが・・・

それ以前は、洗練された高速ターンのことを「スーパー・パラレルターン」とか「スーパー・ウェーデルン」とか呼んでいた。1994年のSAJ日本スキー教程にもカービングターンという言葉は一つも登場せず、最上級の技術として「スーパー・パラレルターン」が位置づけられている。

この「スーパー・パラレルターン」という言葉は、1993年頃に登場した造語だった。「スーパー・パラレルターン」は今で言うところの「高速・カービングターン」を指すのだが、それをわざわざ、「スーパー・パラレルターン」と呼んだぐらいだから、いかに当時「カービング」という言葉が一般的でなかったか・・・が、うかがえる話といえる。

ちなみに、この「スーパー・パラレルターン」という言葉は、カービングスキーの登場で、直ぐに「カービングターン」という言葉に置き換えられてしまい短命に終わった。混迷を続ける日本基礎スキー界にはありがちな話だ。

さて、そのカービングターンが、公式の場で初めて議論されたのは、1987年のインタースキー・カナダ大会だという。

スキー技術の変遷Ⅰ
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/12182/1/kyouyoronshu_173_39.pdf

スキー技術の変遷Ⅱ
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/12248/1/kyouyoronshu_258_1.pdf

それまでインタースキーでは、ローテーション、バインシュピール、ウムシュタイク・シュブングなど、それこそ50年以上に渡り、スキーの操作法に関する議論が続けられてきた。それが、60年代にバインシュピール技法の流れで世界の基礎スキー界が回り始め、それ以降、80年代になると議論すべきネタが全て出尽くした状態となってしまう。

そして、1987年のインタースキーで注目されたのが、レーシングの世界では常識だったカービングターンだったというのである。ちなみに、スノーボードの世界で初めて「International World Championship」が行なわれたのもこの年だった。

一方、レーシングの常識であるカービングターンだが、さぞ昔からカービングにこだわりがあるのかと思いきや、1991年の「スキーコンプ」誌を見ても、カービングという文字の欠片すら無い。

先のオリンピックの映像を見ると、レーサーが局面によって「スキッド」または「スィング」を多用しているのがよくわかる。「カービング=タイムロス少ない」、「スキッド=タイムロス大きい」ということから、彼らとしてはスキッド状態を極力排除して滑りたいということになる。

つまり、レーサーは難斜面でカービングターンを見せるということを目的としているわけではなく、レースでタイムが早ければ滑り方は何でも良い・・・のである。レーサーにとってのカービングターンは、基礎スキーでのカービングターンとは、やや意味合い(目的)が違うと言えるだろう。

◆ここで一旦、まとめを行なうと・・・・
カービングスキー登場以前には、スキー指導の現場でカービングターンが強調されることは無かった。
・レーシングの世界も、カービングターンだけに固執しているわけでは無かった。

 

【日本の基礎スキー界の出来事】

少し時代が古くなるが、70年代の半ばで技術選の流れを変える選手の登場があった。
1976年の小林平康の登場である。この頃、技術選は「全日本デモンストレーター選考会」と呼ばれていた。

スキー学校の教師から、インタースキー出場者を選考する目的で始まった全日本デモンストレーター選考会だったが、それがいつしか冬のビッグイベントとして見られるようになり「スター選手」が登場するようになる。

そんな中、「速いものは美しい」を合言葉に、デモンストレーター選考会に「スピード」という哲学を持ち込んだ小林平康というスターの登場は鮮烈だったという。この出来事をスキージャーナリストの志賀仁郎氏は、「様式美から速いスキーへの変貌」と評している。

日本文化は、その「抑制文化」に特徴がある。精神的欲求、肉体的欲求、行動、言動、感情、日常のあらゆることに「抑制」が求められ、その「抑制」=「コントロール能力」に重きが置かれてきた。

スキーに限らず、自動車レースの世界でも同様のことがいえるが、一般社会においては、ある種、スピードの抑制が美徳とされた時代があったように思う。

一例を挙げれば、スキー学校でスピードを出すことを教えるのはもっての他・・・という社会通念のようなものが過去にはあった。そこに欧州発祥の「スピード文化」が持ち込まれたのだが1970年代だったとされる。

 

【スピード文化の違い】

60~70年代にかけて、スキー、4輪、2輪のレースで欧州に遠征に行った選手達は、アウトバーンを代表とする、日常生活に深く浸透したスピードの概念を目の当りにするこになる。

この欧米人のスピードの概念というのはどこから来るのだろう?

私はニュージーランドでの運転経験しかないが、とにかく郊外では老若男女問わず飛ばす。山スキーの知人によると、欧州でも同じなのだという。

NZの場合、制限スピードは単純で、街の中心部や集落など人の往来が多い地域では40km/h、都市部の周辺や集落の出入り口一帯では60km/h、郊外は100km/hである。

おもしろいのは、皆、集落内ではきっちりと40km/hで走っている点である。日本に比べて道幅も広く、むしろ日本人である私の方が、郊外からの延長で飛ばし気味になることが多かった。

同様に、都市部の周辺や集落の出入り口一帯も制限速度は奇妙なほど守られており、日本よりも交通統制が取れている印象だった。

ところが、郊外の道路になると、皆、一様に110~120km/hで走っている。道路がこのスピードで巡航できるよう設計されているのも理由だが、日本のように「スピード落とせ!」一辺倒でなく、カーブ手前に、そのカーブに合わせた巡航速度が表示されており、それに合わせて走れば問題なく走れるよう工夫がされていた。

一方で、郊外を130km/h以上で走るドライバーがほとんど居ないのも印象的だった。これはスピード取締りが大変厳しいという理由もあるが、そこまで出すと危険だということを、人々が伝統的に知っているようだった。

飛ばす時は飛ばす、ゆっくり走るべき所では減速する。走り方にメリハリが感じられたのが、NZを運転した正直な感想だった。

これはNZのゲレンデでも同じことが言えた。「SLOW」の表示エリアで減速しないのは、その多くが日本人だという。我々日本人は社会通念という「タガ」が外れた時、自己抑制が出来ず、暴走気味となるように思う。

恐らく、日本に欧米のスピード規制を持ち込んだならば、郊外の道はサーキット紛いの危険地帯となるはずだ。

日本人の場合、切れたようにどこでも飛ばすか、常に抑制が効いてどこでもゆっくり走る・・・という感じになるだろう。これは仕事と休日の関係(メリハリ)についても同じことが言えそうだ。

このように私が感じたスピードに対するカルチャーショックを、60~70年代にかけて欧州に遠征に行った選手達も同じように感じていたはずだ。そんな本場欧州の価値観が、技術選という日本独自の大会に持ち込まれたのが70年代であった。

抑制された様式美・・・舞踊のようなスキーから、力強いスキーへの変貌という価値観は、小林平康から渡部三郎という新しいスターへと引き継がれて行くことになる。

更に、カービングターンの神格化に決定的な影響を与えたのは、1985年から始まった元ナショナルチーム所属のアルペンレーサーの技術選出場と上位独占である。

1985年に、元WCダウンヒラーの斉木 隆と学連レーサーの出口沖彦が基礎ビュー。翌1986年には、レイクプラシッド五輪・SL15位入賞の沢田 敦が、鳴り物入りで基礎でビューを果たす。

斉木 隆の場合は、怪我による競技スキーの断念があり、基礎スキーに活路を見出す・・・という偶然のドラマががあったのだが、先の小林平康、渡部三郎の存在がなければ、それもあり得なかっただろう。

この時期のレーサーからの転向組みを挙げると・・・・

◆元WC、ナショナルチーム組み
斉木 隆、沢田 敦、森 信之、佐藤 譲、大関千秋、・・・

◆学連レーサー組み
出口沖彦、小林和仁、渡辺 一樹、我満嘉治、田端夏葉・・・

そうそうたるメンバーである。また、これを機に、本場欧州から続々とWCレーサーが日本の技術選に集結。上位を独占するようになる。こうやって90年代の技術選は、まるでWCのプレ大会?ともとれる状況が続いたのである。

また、これらの流れと反比例するように、生抜きのスキー学校出身選手の影が薄くなって行く。明確な資料が見つからないのだが、1997年の山田 卓也の上位入賞まで、スキー学校組みの選手が上位に食い込むことはなかった。この状況は現在でも続いており、2014年現在にあっても生抜きのスキー学校出身選手というのは本当に少ない。
(※)とはいえ、スキー学校組みの選手も、過去に何らかの競技経験をしている選手がほとんどである。

結局、技術選は何の大会かわからなくなってしまい、1996年から全日本スキー技術選手権と国際スキー技術選手権という2タイトルを争うようになって行った。

このように、カービング元年直前の90年代前半というのは、欧州で生産されるスキーの約半数を消費し続ける日本において、スキーの定義が完全に覆った時期でもあった。技術選はWCレース並みのスピードで争われるようになり、スキー教程の具現化とは程遠い大パフォーマンス大会となってしまう。

もちろんこれだけでカービング革命の理由にはならないだろうが、欧州での選手用プロトタイプの結果も踏まえ、1997シーズンから一気にカービング化が進んだのだと私は考えている。

 

【今回のまとめ】

130年ほど緩かったスキーのサイドカーブに変化が起きたのはなぜか?
①突然、起きたかのように思えるサイドカーブの変化だが、90年代前半、既に変化が始まっていた。
カービング元年以降も、トップ機種の形状は激変することはなかった。変化したのは長さだった。
③選手用プロトタイプとして、1994年頃から既にカービングスキーが実用化されていた。
④欧州では80年代後半、日本でも90年代前半からスキーメーカーがスノーボードを製作・販売し始めた。
⑤スキーバブルの影響でゲレンデがカービングターン向けの斜面になった。
スノーボードの台頭とシュプールへの憧れ。
⑦技術選のスピード化(WC化?)により、カービングターンの神格化が起こった。

 

Schi Heil !!