私と「マフェトン理論」との出会い

今年、同級生は52歳になる。
かくなる私も、寄る年並みには勝てず、遠くの物も近くの物も見え難くなり、眉毛に長い物は出て来るし、耳毛は生えて来るし、鼻毛には白い物が交じるし・・・おまけに、まるで10年超の中古車が、突然、部品が壊れるように、予想もしないところで、突然、痛みが出て、長期間治らない・・・など、老化ってこういうものなんだなぁ~と、しみじみ感じている次第である。
しかし、最近、老化は、皆、公平に訪れるもの・・・という概念では語りきれない別の側面が存在していることに気付いた。

自分自身を振り返ると、一番体力的に落ち込んだ時期は1994年(30歳)頃だったと思う。
高校時代はレスリング部に所属し、高3の夏が体力的にも絶頂期だったように思う。減量のため、60分連続のスパーリングを軽々とこなしていた。その後、大学時代には、柔道、空手、レーシングカート、就職してからはスキーと、多種多様なスポーツを経験するのだが、その一方で鼻炎持ちで風邪を引きやすく、長距離走は大の苦手だった。

当然のことながら、社会人になってからは身体を動かす機会が極端に減り、就職から約10年が経過した頃、身体の不調は限界にまで達していた。本社に移動となり、クーラー内部が凍り付くほど強力な冷房の効いた電算室で、終日、椅子に座ってプログラムと格闘する生活が続いていたからである。通勤で1km歩くのも苦痛で、何か日常外の作業(洗車・・・とか)をすると、決まって翌日は筋肉痛で鼻炎か風邪であった。
当時は、日曜に運動を行うと、火曜~水曜あたりに体調の凹みが起こり、それをきっかけに風邪を引く・・ということが良くあった。思い出深いのが、明石海峡大橋が完成した直後のブリッジ・ウォークに参加した時のことである。距離は約8km。歩き切った翌日、熱が出た・・・今では考えられない話である。

更に当時は、便秘に冷え症、腰痛、背中の痛みなど、様々な症状が重複していた。
このままだと長生きは出来んなぁ・・・そんな危機感を感じてトレーニングを始めたのがこの頃である。
帰宅後、自宅周辺を軽くランニングしたり、20ℓのポリタンク4個を流用してスクワッをしたり・・・劇的効果は無かったものの、それなりに体調は回復して行った。何より継続してレーニングを行うことが習慣になった点が、この頃の最大の成果だと思う。
こうして考えると、体調が落ち込んだこの時期があったからこそ、今があるのかもしれない。

そんな、いまひとつの体質に変化の兆しが出始めたのが、1996年(30歳)から本格的に始めたフリーダイビング※である。よく潜った夏の、その次の冬、不思議なことに風邪を引かなかった。だから、以後は健康維持も兼ねて夏場は良く潜った。
※素潜りは、小学4年の時、水中眼鏡を買って潜り始め、それは中3まで続いた。元々、水泳で息継ぎが苦手で、その結果、息を止めて泳ぐ事に長けていた。

だが、本当に体質が変わったと言えるのは、山スキーを開始し、3年シーズンが経過した2006年(44歳)以降だった。モンゴル渡航の準備として開始した山歩き(1999年)が高じて、雪山に入ったのがスキー2003シーズンの終わりである。夏山に限って言えば、当時既に、JR摂津本山から六甲山頂・魚屋道~有馬のルートの往復24kmを、夏山の完全装備で5時間30分で踏破する力があった。しかし、山スキーでは、29号線沿いの坂ノ谷の登山口から氷ノ山山頂往復(約24km)が踏破出来ず、3年連続の敗退が続いていた。

つまり、夏山は、かなり行けてたが、冬山はカラッきしダメだったのである。冬山では3時間以上の山行ができない・・・バテてしまった。

原因は、スキーを履いてシールを装着して歩く・・・という特殊な状況に加え、冬山独特の装備で荷が重かった・・・事である。そこで、秋の六甲山トレーニングで荷の重量を24kgまで増やし、足首には5kgの重りを付けて冬に臨んだ。

余談だが、人間の歩行能力のキャパシティの凄さに気付かされたのはこの頃である。最大で36kgの荷を担ぎ、自宅から明石公園往復の約10kmのトレーニングコースを、だいたい1時間半程で終わらせることが出来るようになった。
※現在でも秋の六甲山トレーニングの定番は、JR三ノ宮~新神戸・布引~稲妻坂・黒岩尾根~摩耶山頂~王子公園~JR灘の約3時間30分のコースである。

しかし、それでも氷ノ山山頂まで辿り着けない。惨敗だった。

これには、どうにも我点が行かなかった。
36kgもの荷を担いで自宅周辺を駆け回ることが出来ても、冬は全くダメ・・・おかしな話である。
この不思議度は、レスリングでは60分連続のスパーリングを行えても、鼻炎持ちで風邪を引き易く、どちらかというと顔色が悪く虚弱・・・というのに似てるかもしれない。

その後、登山の書籍やネットで調べまくった結果、ようやく辿り着いたのが、トライアスロン選手がトレーニングに取り入れている「マフェトン理論」だった。これは、トレーニングの際の心拍数を、MAXの70~80%に維持し、延々と運動を続けるというトレーニング方法だった。

始めは半信半疑だったが、トライアスリートが取り入れているのであれば何か効果があるだろう・・・と、心拍計を購入し、秋の六甲山トレーニングで心拍数の上限を145拍/分に設定。ひたすら歩いた。当時、会社の休みが日・水曜だったので、「トレーニング→2日間休息」というサイクルにピタリと合っていたのも幸いした。9月から12月上旬まで、それこそ、どんなに疲れていても死ぬ気になって全ての休日をトレーニングに当てた。

心拍計を装着して気付いたのは、調子が出てくれば150~160拍/分、場合によっては170拍/分を超えて走ることが可能だという点だった。それに比べると145拍/分というのは非常に中途半端で、身体の勢いを押さえるのが難しい。そして気を抜くと直ぐに120拍/分まで落ちる。そのうち、鼻で呼吸の可能な最大の負荷が、だいたい145拍/分前後だと気付いてからは、登りはゆっくり、平地は軽いランニング、下りは全力で走る・・といった感じでペースを変化させ、心拍数を維持することが可能となった。
※ちなみにフリーダイビングを行っている関係から、安静時(起床)の最低心拍数は50拍/分である。

すると・・・その年の10月ぐらいだったろうか?いつも歩き始めて2時間経過した頃に必ず取っていたエネルギー補給が不要となった。これには自分でも驚いた。そして、最終的にはJR三ノ宮駅からJR灘駅までの約3時間、水分補給だけで、全くエネルギー補給無しに歩けるようになった。人間の歩行能力のキャパシティの凄さを感じた2度目の経験である。こんな無茶をすれば身体を壊すと思いきや、むしろ次第に体調が良くなって行った。

つまり、こうである。歩行開始から2時間というのは、ちょうど血中の糖質エネルギーの補給点だったわけだ。
糖質エネルギーのタンク減ってくると、人間は空腹を感じたり、甘い物が欲しくなったりする。そして、一旦、そんな状態に陥ってしまうと、運動を続けるため、常に糖質エネルギーを補給する必要が出てくる。このひどいのが、いわゆるシャリバテ状態である。ところが、一旦、シャリバテになってしまうと身体に蓄えた脂肪エネルギーは一切使用されない・・・これがポイントだ。

実は、燃え難い脂質エネルギーを上手く燃焼させるためには、若干の糖質エネルギーが必要なのだ。
こんな風に例えるとわかり易いかもしれない。糖質エネルギーを「ガスバーナー」、脂質エネルギーを「濡れた薪」としてみる。濡れた薪を効率的に燃やし続けるため、バーナーで少しだけ下から炙ってやるような・・・そんな感じである。

つまり、マフェトン理論によるトレーニングは、糖質を節約しながら脂肪燃焼を行い(バーナーのガスを節約し・・・)、その状態を長期間続けることで、脂肪のエネルギー代謝のパイプが太くする(薪をくべる本数を増やす・・・)ことを目的としたトレーニングということなのだ。

この時から人生の全てが変わった・・・と言っても過言ではない。
まず、仕事で即効的に効果が現れた。人間は脳のエネルギーが不足すると、集中力が途切れ、怒りっぽくなる。ところが、トレーニング効果が現れ始めてから、まず、仕事によるイライラが皆無となった。自分でも驚く性格の変化が起こったのだ。
そして、朝、自宅で食事をして、定時より2時間早く出勤、そのまま昼休みを無視して仕事を続け、深夜の23時に終業。その間、口にするのはお茶とクッキー数枚・・・というそんな過激な仕事振りが可能となった。
ちなみに、ソフト業界の残業地獄を若い頃に経験した関係上、仕事が忙しく睡眠が取れない時は、食事は軽く済ませた方が体調維持に良いことを知っていた。

その後、山スキー関連では20km越えのルートのワンデイ踏破を次々と記録。2010年には戸倉旧道~三室山単独ワンデイ往復15時間を成し遂げるに至った。

現在、冬のゲレンデスキー、山スキー、夏のフリーダイビング以外にも、時々、MTBに乗ったり、ゴルフの打ちっ放しに行ったり・・・するのだが、これら全てのスポーツが、ブランクが空いても比較的すんなり感覚が戻るようになった。予備トレーニングを行わなくても、ほぼ、ぶっ付けで行うことが可能となったのだ。フリーダイビングに関しては、2009年まで7年間のブランクがあったが、再開後は、シーズンイン時であっても、少なくとも1時間、長い時には2時間近く沖に出ていられるようになった。体力的なアドバンテージがあるので、その日の内に感覚を戻すところまで行けるのだと思う。これには自分でも驚きであった。

これらの原因として、体質が変化したことに加え、仕事の変化の影響も大きいと思う。
2013年から設備管理業務の仕事に就いたことで、日常的に身体を動かすことが可能となった。仮に以前のようなデスクワークだったなら、恐らく週に1回はマフェトン理論ベースのトレーニングを行う必要があるだろう。

このように、マフェトン理論によるトレーニングで私の人生は大きく変わった。これは「変化」・・・というより「再生」と表現する方が正しいかもしれない。人生にもしも・・・があれば、10代の頃、マフェトン理論に出会っていたなら・・・その後の人生どうなっていたのだろうか?
※マフェトン理論が考案されたのは1980年代前半のようである。

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