登山トレーニング履歴をまとめる

風邪を引いたので本日はトレーニングは中止。録画しっぱなしにしてたドラマや映画を見たり、昔の登山トレーニングのまとめをやって過ごした。

私の手元にボロボロになったミニノートがある。2005~2012年までの登山の履歴を記したものだ。今季、3年ぶりに登山トレーニングを復活させた関係で過去のタイムが気になり、このノートに書かれたデータを検証してみた。これを機会に思い切ってこのノートに記された登山トレーニングを全てをEXCELに打ち直してみた。
※スキーの全滑走記録533回分の記録(ゲレンデ、山岳を含む)をEXCELに入力したものが存在していた。8月にレーシングカートの全日本選手権を見てカートの全走行記録も気になり、9月にEXCELに打ち直した。今回はその延長とも言える。

このノート以前の登山トレーニング(1999~2004年)の記録は無く、記録として正確に残っているのは、このノートを開始した2005年以降となる。

そもそも私の登山歴のスタートは、1999年8月のモンゴル渡航がきっかけである。詳細は割愛するが、万が一の際、35kmほど離れた地点から草原を歩いて宿舎に戻る必要があった。その必要に迫られての登山トレーニングだった。

一番最初のトレーニングは、1999年の5月、JR須磨から自宅までの8kmを歩いたのが始まりだった。靴はいわゆるトレッキングシューズで、リュックサックと共に現地で使う衣類、用具の馴らしも兼ねていた。
モンゴル渡航を済ませた後もトレーニングを継続し、自宅~明石城までの往復(約10km)を中心にトレーニングを組み立てていた。最初の荷は重量は5kg程度だったのだが、それでも朝霧町の坂を登るのに苦労したことが鮮明に思い出される。標準タイムは片道50分程度、往復で1時間40分程度だった。

この明石城往復のコース以外にも、自宅周辺の丘を連続して繋ぎ、「舞子アルプス」と称したコースも考案した。
このコースは意外とハードで、現在でも全コースを踏破するのに3時間程度を要するものだが、路面がアスファルトであることや、途中にトイレが存在しない点、歩幅など自然の環境とは全く違うので、現在ではこのコースを歩くことはまず無い。

明石城往復のトレーニングは、休日の午後に行うことが多かった。荷の重量は次第に増えて行き、2002年頃であったろうか?最終的には36kgまでになった。この時感じたのは、人間の歩行能力のキャパシティの凄さである。
この頃、私は35歳を過ぎていたのだが、もうこの歳になって運動能力が向上するなど考えてもみなかった。自分の潜在能力には驚かされたものである。阪神淡路大震災の時、神戸駅から会社までの8km、明石海峡大橋の開通時のブリッジウォークの8kmで、共に翌日には熱が出てダウンしたことが嘘のようだった。
そもそも、人間は1日に20~30kmを歩いて狩猟採取を行い、糧を得ていたのだから当然といえば当然である。

その頃、トレッキングシューズのカカトの減りが早いので、東京神田の登山ショップで革製の重登山靴を購入した。

次第に、自宅周辺のトレーニングの仕上げとして六甲山系へと出向くようになった。最初にトライしたのがモンゴル渡航前の1999年の初夏だったろうか?須磨アルプスの西端、鉢伏山頂を経由して鉄拐山から汐見台へと下るルートであった。記録が無くどこから登ったのか?が定かでは無いが、トレーニングの開始がJR須磨だったから、JR須磨駅で下車し、徒歩で須磨浦公園まで行き、そこから鉢伏山頂を目指したものと思われる。(もしかしたら塩屋からだったかもしれない。)
いずれにしても、第二神明道路の料金所を横目に見ながら汐見台へと降りたことだけは鮮明に覚えている。

その後、モンゴル渡航を終えた秋頃から、JR芦屋下車、ロックガーデン経由で六甲山頂を目指すルートに入るようになった。今でも忘れることができないのだが、途中の芦屋カントリー倶楽部付近でシャリバテ状態となり、後ろからどんどん抜かれ、情けなくて涙が出そうになった。先日、摂津本山~有馬往復の際、この場所を歩く度に、この時のことが思い出され懐かしくなる。

この頃、下山ルートを間違えて沢の方に迷い込んだ出来事があった。この時履いていた、例のトレッキングシューズでは土の斜面が登れず、進退窮まって大変苦労した思い出がある。遭難者がダメとわかっていながら沢の方にどんどん降りてしまう理由が良くわかった。その後、靴底の曲がらない重登山靴の登攀能力の威力を知ることになる。
これ以外にも、登山道でスズメ蜂に遭遇したことや、藪漕ぎを行って帰宅すると着衣に大きなマダニが付着していたことなど、トラブル一歩手前の経験も多かった。

そんな初期の経験を経て、2003年3月に山スキーを開始するのだが、目標にしていた氷ノ山山頂までの往復24kmが、長い間、達成できなかった。特に万全の態勢で臨んだ2005年3月の敗退のショックは大きかった。2時間ほど経過した時点で「ヒザ痛君」が発生しての敗退である。入念なトレーニングと、当時最軽量の用具を購入した上でのチャレンジであったにもかかわらず・・・である。

今となっては当たり前に思うのだが、いくら水平面での能力を強化しても、山スキーでは意味が無かった。

この出来事以降、自宅中心に水平移動で組み立てていたトレーニングを止め、エリアを六甲山系に移して累積標高を意識するようになった。
ちょうど、登山のミニノートに山行を記録するようになった2005年の話である。

その、六甲山系・・・特に摩耶山エリアを中心としたトレーニングも、最初はJR三ノ宮からバスで摩耶登山口の下まで移動。稲妻坂を下って新神戸、徒歩で三ノ宮に向かうスタイルだった。
ある時から、すれ違う登山者の多さにうんざりして、始発でJR三ノ宮まで行き、徒歩で新神戸まで移動、布引から登山道に入って摩耶山頂付近の鞍部まで行き、そこから摩耶登山道を下山、王子公園を経由してJR灘に戻るスタイルに変更した。

このコースを定番とした理由に、職場から摩耶山が見えたことや通勤定期を持っていた点が大きい。また、実際の山スキーでは、まだ暗いうちからスタートしてベストの状態に持って行かねばならないため、早出・早着のトレーニングも兼ねて始発電車を利用するようになった。自宅の起床は3時半である。このトレーニングのお蔭で、夏のNZスキー旅行など時差ボケの問題や、早朝の移動に関して強くなったし、何より現在の夜勤業務への対応も早かった気がする。

この摩耶山界隈でのトレーニング、次第にエスカレートするようになり、2005、2006シーズンは秋の3か月の間に15回も行っている。今、当時のトレーニングを振り返って感じるのは、よくもまぁこれだけやったな・・・という呆れである。調べて驚いたのが、2日連続で山に行ったのが、シーズン中2回もあった。
また、会社に8kgほど担いで通勤していたのもこの頃だった。スーツの肩が擦り切れたり、荷が重くて満員電車で荷棚に荷を乗せられなかったり、ビジネスシューズのカカトの減りが異常に早かったり・・・など、奇行に近いことを行っていた。

そして最終的には、24kgの荷を担いで下りは走る・・という所までになった。これは「のじぎく国体」で山岳競技・縦走を目の当たりにした影響が強かったと思う。私が100分程度かけて登るルートを、彼らは17kgの荷を背負って、半分の50分程度で駆け抜けるのだ。

このトレーニングの結果は、比較的ダイレクトに山スキーに現れたのだが、ところが・・・である。それでもなお、シャリバテすることがあったのだ。忘れもしない2007年5月の双六岳遠征・・・他の悪条件もあったが、とにかくバテバテであった。

何かがおかしい・・ネットで調べ回った結果、トライアスロンのチャンピオンが取り入れたことで有名となった「マフェトン理論」に行き着いたのだった。もし、このトレーニングに出会ってなかったら、それまで以上に過酷なトレーニングを課していただろう。そう考えると恐ろしい気もする。2007年はまさに人生の分岐点であった。

初めてマフェトンベースでトレーニングした2007年の事は鮮明に記憶している。まず感じたのは、145拍/分というペースを維持することの難しさである。身体がほぐれて来ると160拍/分以上、場合によっては170拍/分以上も出た・・・出たというより、出すのは簡単だった。しかし、このようなアネロビック的運動を一旦行ってしまうと、エアロビック的要素に身体が戻るのに数週間かかるというから、その勢いを抑えるのに一苦労した。最初に気が付いたのは、鼻で呼吸できる最大運動が145拍/分だったということだ。

ところが、鼻での呼吸だけを意識してトレーニングを進めて行くうちに、次第に下限の120拍/分を下回り、ターゲットゾーンを維持できなくなった。つまり、マフェトンベースのトレーニングが上手く進んで行ったのだ。この場合、負荷を上げる必要があるのだが、何より感覚に頼ることに出来ないトレーニングであるから、いかなる場合でも心拍計の装着は必須だった。

そしてもう一点、歩行開始から2時間経過した頃、苧川谷の崩落復旧工事の現場で必ず摂っていたエネルギー補給が不要となった。最終的には摩耶登山口への下山まで、一切のエネルギー補給が必要無くなったのだ。脂肪を燃焼させるパイプが太く、また、効率良くなった結果である。
これには正直面食らってしまった。こんなことが起こるんだ・・・という感じであった。

このように、半信半疑のままスタートしたマフェトンベースのトレーニングだったが、ある程度、秋山で効果を確信し、次の2008シーズン、雪山に臨むところとなる。結果として数々の日帰り長距離縦走を成功させることになった。

まぁそんなことを考えながら、過去の記録のまとめを行った。


データをまとめたEXCELシート


今となっては宝に等しい登山ミニノート


山スキーと無雪期登山、登山トレーニングの記録がメモされている。


 

Schi Heil !!