2012/02/14

約2年ぶりの記述になる。TOK師匠が亡くなってから殆ど更新してなかった。TwitterFacebookなども登録したので、ある意味ブログは・・・というのもあるかもしれない。久々に内容を読むと、現在感じている事と共感する内容がある。スピリチュアルな内容とは別に、山行記録は付けても良いかもしれない。

その後の人生・・・HD社を退職をしてノモンハンに行き、Web訓練校に通い、緊急雇用で河川調査をし、人生初の測量会社勤務をした。また、その間にノモンハンのサイトを充実させ、両親の記録も残せた。自分自身のこの25年も振り返ることが出来た。デザイン関係のスキルは少しづつ確実にUPしているように思う。
現在は新たな目標に向かって進んでいる。資格取得は最終目標だが、人生の難関?数学の克服と受験リベンジと言っても良いかもしれない。
さて、良きにつけ悪きにつけ、人生は受け入れるものであって、自分自身、何処へ行くのか?判らないが、何かがそうさせているような実感は常にあって、それに従っていれば、それなりの結果は得られるように思う。しかし、それでも何か不一致が生じてしまう時期もある。降り返って見て何だったんだろう?と不思議になる事もしばしば・・・。
河川調査は不思議な体験だった。会社と取り巻く環境は良かった。しかし、ある一人の人間の為に何かが狂った様に思う。しかし、彼は彼で正しいのだとも思う。最近常々思うのは、皆、正しいのである。
不思議なのは、良い悪いの判断を自分自身の意識がしているわけではなく、何か別の部分がしているという事だ。例えば先の入試での一連の出来事は、やはり何かを避けたい意識、もしくは辻褄を合わせたい何かが、そうさせたように思う。そこには社会的善悪も精神的な充足も無く、ただ単に本能的に不快なものから身を守る意識ではないだろうか。その環境を遠ざけさせるような出来事を、意図的に起こさせる力・・と表現出来るかもしれない。
その視点で考えて見よう。
【電車で横の人が寄りかかってくる】
電車その物が嫌なのか、隣り合って座る行為が嫌なのか、その場を離れさせようという意識ではないか?
【レジで遅い人の列に並ぶこと】
レジそのものが嫌では?レジを打ってもらっている時そのものに何か嫌なものがある。
【左利き人間との相性】
相手からの攻撃性、避けたい意識がそうさせるのでは?何か元来、緊張や圧迫を感じる相手ではないか?その緊張や圧迫は社会性を帯びたものでは無く感覚的なものの様に思う。その部分は単に“相性”と表現出来るのかも知れない。
【銀行の窓口】
まず、相手はミスした事に対して負い目があった。こちらも同様。また雰囲気も避けたいものがあった。処理も遅く間違いも多かったので。とにかく避けるべき相手であったことは確かである。
【就職先】
仕事、学校そのもの、時間を拘束される場が嫌ではないか?幼稚園に行く直前、既に毎日拘束される事に不快と不安があった。そう考えると、良い流れの仕事、悪い流れの仕事に共通項が見出せるように思えるのだが。
【六甲道との縁】
これは全く説明できない。西方面が相性が良いのは判っているが、それともまた違うように思う。
【女性との接点】
ある意味、緊張がもたらしているのかもしれない。いわゆる良きにつけ悪きにつけ、緊張は避ける方向にあるのだろうか?
 
・我慢するということも考慮されない。我慢の先に必ず明かりがあるという事は関係ないようだ。より良い方向に持って行くという事も意識されない。ただ、進むか逃げるか・・だけのようだ。トータルで考えると、緊張の先に大いなる喜びがあるということは、全く意識されていないように思う。その部分は理性的思考だからではないか?
 
・しかし、それでも多少は学習要素はあるのかもしれない。何かの切欠で状況が一変することが多々ある。
 
・得する意識というのが少ないように思う。理性的に得と感じる・・ということではない。雨の日に外に出たくないというような事から、雨男、雨女が発生するのではないか?