「タテ社会の・・・」2冊購入(2020/01/21)

「タテ社会の人間関係」(執筆そのものは1966年12月)

今なお売れ続けているベストセラーということだ。

しかしまぁ、よくぞここまで分析したなと思う。私の頭脳では到底無理・・これが最初の感想だった(笑)

というのも、書いてあることは全て私が実感してきたことばかりだが、それを漠然とわかっていても、系統立てて他人に説明が出来ない。そんな複雑で難しいことが、理論立てて書かれていたと思う。

読み終えてひとつわかったのは、「スクールカースト」という言葉は間違っているということ。元々は米国から来た言葉だというが、そもそも「カースト」が誤認されており、日本流にアレンジされてしまっている。

スクールカースト」を正しく言い替えるなら「クラス一家」となるはずだ。(※この場合の「一家」とは親分子分の「一家」である)

本当の「カースト」であれば、クラスを越えて学年を越えて、1軍同士、2軍同士、3軍同士のネットワークが出来ているはず。
そして、1年1組の3軍の一人がいじめに遭っていれば、他の学年や他のクラスの3軍が集団で援護する・・・そんな状況が生まれるはずだ。
これは日本では到底考えられない話。
へぇ~・・・である。

さて、この本は分析だけなので、どうすればよいか・・・は書かれてない。ただ、この本に書かれていることを念頭に、世間を賑わせた事象を見て行くと、自ずと答えが出て来るような気がする。

 

「タテ社会と現代日本」(2019年11月刊)

いわゆる解説本になると思う。
著者が1966年に執筆した「タテ社会の人間関係」の解説と、昨今、発生した事件・ニュースでの事例解説(須磨東小学校のイジメ事件や大手広告代理店・女子社員過労自殺など)
加えて、著者が「タテ社会」研究を始めたきっかけ等の紹介が主な内容だった。

「・・の人間関係」の方を読めば、特に改めて購入する要はないと思う。逆もまた然りの内容だった。(悪い意味ではない)

「タテ社会」の意味だが、これまで私は少々勘違いをしていたように思う。「タテ社会」=「階層社会」の意味ではなかった。

最近の話だが、欧米において「人は平等」の「平等」とは、白人同士の間だけのことではないか?と考えるようになっていた。(基本的人権の“基本”部分と、また別の話)
本書を読めば、むしろ欧米の方が階層社会だということが理解できる。

ところが、欧米ではこの階層内での横のつながりが強固なのだという。そして階層内ではあらゆるジャンルの人々が同等で扱われる。

恐らく、この「階層」の定義が、日本人の感覚では理解できない。階層分けの「要素」は、業種、職能、所持資格、等様々である。そしてこの「要素」を一人の人間が複数、掛け持ちをしている。

余談にはなるが、欧米では白人と有色人種の職業が「持ちつ持たれつ」の「分業」という形で明確に分けられていることが多い(らしい)。
そういう点では日本の方が自由な社会と言える。

一方、日本の場合は、親分子分に代表される5~6人の「小集団」の積み重なりで社会が成り立っている。

故に、日本では自分の属する小集団以外の出来事に口出しはできない。それどころか「小集団」同士は、むしろ対立し合っていると言って良い。であるから、欧米のように他の「小集団」の同ポジションの者同士が連帯することはほとんど無く、横の連携は希薄となる。

・・・とまぁ、こんな具合。
私が解説するより読んでもらう方が良いが。

さて、その昔、日本では主婦同士の横のつながり(隣保班制度)があったが(もちろん今でも一部、残っている)、考えればその隣保の立場で各家々への干渉はできない。それどころか隣保班内に上下が存在している。
であるから、地域にお嫁さんが来た場合、家の中では最下層、隣保でも最下層、実家からの干渉は一切無し・・・という状況が発生する。この辺りは映画版「この世界の片隅に」で上手く描かれていた。ドラマ版ではきちんと描けていない。

また、学校での部活で見られる上下関係もこうなる。
日本的に見ると、学年毎に上下が存在し、同学年のつながりは、横の関係として同等に見てしまいがちだが、欧米的解釈の横のつながりとは、野球部で言えばピッチャー、キャッチャー、内野手・・・である。そしてピッチャー同士の間柄では、学年の隔たりは重要ではないということになる(らしい)

この辺りの感覚は、日本人では理解し難いんじゃないだろうか。

今、日本の組織の抱える問題点は、この欧米流(やや誤解されたリベラルな民主制)と、伝統的日本流がごちゃまぜになっている点ではないか?
今回、このシリーズを読んで確信を得ることができた。