ス道(2022/01/19)新・スキー道

新・スキー道
スキーは「道」であり「哲学」である・・・
とある高みを目指そうとするところに「道」が生まれ、それに伴い「哲学」が生じる。

 

【道】
スキーは「道」であり「哲学」である・・・

とある高みを目指そうとするところに「道」が生まれ、それに伴い「哲学」が生じる。

ここでいう「道」というのは、剣道・柔道・空手道と同様で「スキー道」ということになる。

昨今は「サ道」(サウナ道)というマンガ・ドラマがヒットした影響で「スキー道」という造語が、僕の考えているイメージにピッタリとはまるようになった。

僕がTOK師匠のサイトで「スキー道」というコラムを始めたのが2001年6月・・・
当時TOK師匠は、野球の神様・川上哲治氏の「野球道」という言葉を返してくれたが、当時と比較して2022年の現在の方が「道」という言葉は使いやすい。

単純に「ス道」ってところだ。

常勤イントラでもない僕にとって、スキーは生存のための必要不可欠な行為では無い。
そんなスキーという道楽・・・に、わざわざ「道」を使う理由だが、スキーという行為を崇高なものに押し上げる・・・そんな作為的なものではない。

先日も書いたように「脳内麻薬」「幸せホルモン」を追い求め、腹の底から湧いて出るもの・・・に素直に従った結果といえる。

マンガ「サ道」では「サウナトランス」が使われたが、その言葉の通り「スキートランス」「スキーハイ」を求めてスキーをするのである。

「道」「哲学」と言いながら、実は本能的・原始脳的な話と言えるだろう。

人は、なぜ山に登るのだろう?
「そこに山があるからだ・・・」
山があれば、確かに人は頂を目指す。
「点の記」、かつての陸軍測量隊が、剣岳を測量登頂した際、オンサイトのはずが、既に平安時代のものと思われる祭器が見つかったという・・・

スキーやカートの場合、それは脳内麻薬の関連する一種の依存症だと僕は考えている。
それはギャンブルが止められないのと理屈は同じだ。ただし、スキーやカート他、趣味で得られた数々のノウハウ・体力は、仕事に・・・つまり社会に還元することで、プラス転嫁することができる。むしろ、趣味での学びが、僕の仕事上の苦境を助けてくれている・・とさえ言える。
そしてまた運転のリスクを冒しながら、脳内麻薬を賞味しに出かけるのだった・・・

 

【武士道】
茶華道、武士道など「道」の文字が付くと、何んだか格式張った儀礼的な要素が目立ってしまい、少し敷居が高くなってしまうと思う・・・だがそうだろうか?

僕は「道」とは、「流儀」や「心得」「理念」「・・シップ」の一種だと考えている。だから、現代の戦場においても「兵士の流儀」が存在し、現代の兵士を、明治以前の日本の戦闘員である武士と言い替えれば、そこに現代の「武士道」が存在するのだと思う。

ただし、ひとつ注意すべき点がある。
それはその流儀が一個人のものではなく、その集団や業界(会社員、兵士、柔道家、空手家、スキーヤー、ボクサー)に属する多くの人々が共有すべき「流儀」・・・である必要性だ。

そう考えると「スキー道」というのは、スキーヤーとしてある高みを目指す集団の、共通の流儀や心得、理念の一種ということになるのだろう。

 

【哲学】(思想→観念)
これもスキーという道楽を、崇高で小難しいものへと押し上げるためのものではない。とある高みを目指す時、そこに「道」が生まれ「哲学」が生じるのである。

例えばスキーにしてもそうだが、初心者から上級者まで、上達のための多彩なカリキュラムが組まれており、それに従ってさえいれば上級者への道は開かれているはずだ。

では実際、講習を受け続ければ上達が保証されているのだろうか?おそらく講習で受けたポイントの意味を理解し、自分のものとしない限り、上達は得られないのだと思う。

トップデモの〇〇氏に教えてもらった・・・で、何がしかのプライオリティが生じるように思われがちだが、まぁ、これはスキーに限らず、勉強も仕事も同様である。

たとえば、我がスキーの師・TOK氏の語録にこんなものがある。

「ゲレンデの大半のスキーヤーが、ターンを仕上げずに終えている。」

この「大半のスキーヤー」というのは、いわゆるゲレンデのレジャースキーヤーを指しているのだが、師曰く、イントラの一部にも該当者は多いのだという。

スキーをやっていると、こういった言葉が意味するところが、突如、天から舞い降りて来る瞬間がある。その瞬間が訪れるまで、言葉の意味を咀嚼し、考え続けることが大切で、それがとりもなおさず哲学的・・・ということになるだろう。

 

Schi Heil !! 2022