生活様式の変化(2023/07/30)

早や7月も終わりである。瞬く間に月日が過ぎ去り、このところ強く感じるのが「生活様式の変化」である。その大きな原因の一つが「転職」であり、もう一つが「父の入院(要介護5認定)と母の認知症発症(要介護1認定)」だった。

【転職】
昨年の4月に転職し、三ノ宮勤務となった。結果として、これまで約10年ほど続いた「地元での24勤務」から「都市部での平日勤」に変わり、晴れて?人生初の完全週休二日となった。

仕事は、多少、ゆったりとしたものになるかと思いきや、在りし日のD社勤務の、それも結構な激務の時期に戻ったと表現してよい状況。毎日、20~21時ぐらいまで残業する必要があるのだが、月間の残業数は30時間までに制限されており、常に仕事が溜まってゆく。その溜まった仕事は、時折訪れる暇な時期に消化するのが常で、毎月、残業制限ギリギリを狙って仕事をしている。これは計算上「24勤務」をしていたころ、月当たり2~3日の休日出勤をしていた時と変わらず、単に、休日出勤分を平日の残業で補っているだけのことである。

平日勤務だったD社時代の勤務状況との比較は難しいが、帰宅後、何もできない。D社時代は帰宅後も自分の時間が持てた印象があるのだが、今は、ほぼ毎夜、洗濯は21時台となり、5時起床の関係から、少なくとも22時半までには就寝する必要があるので、自分の時間は、ほぼ持てない状況である。

【両親の認知症
2017年から始まった父の認知症が一気に本格化し、昨年(2022年)9月より完全に寝たきりとなる。実家に、訪問入浴を含む介護スタッフが多く出入りするようになり、母が中心となって父の面倒を見て来た。

ところがその母も、父の寝たきりと同時進行で認知症が目立つようになった。(※母の認知症が出たから、結果として、父が歩けなくなる状況に陥ったのかもしれない。ほぼ同時期である。)

そんな母も、1月に自転車で転倒。翌日、病院に連れて行った帰宅後、失神して救急搬送で2病院…など、自分のこともまともにできない状態となる。ただ、母の場合は、身体が強靭で、かつ、不得意分野が限られている点が救いである。結果として父の介護を、ある程度、中心的立場で受け持つようになった。

2月ぐらいから父の「天疱瘡」もひどくなり、何かと気をもんだが、ある意味、安定もしていた。ところが6月に入ってから、寝たきりの父が2回立て続けにベッドから降りてしまう案件が発生。緊急で介護スタッフを呼んでベッドの上に揚げる事態となり、結果、レスパイトで入院をさせた。

直後から母が週2でデイサービスに行くようになり、ある程度、安心していられるようになった。今は父の次の入所先さえ決まれば、暫く安定期に入るだろう。

生活様式の変化】
そんな中、変わってきたのが生活様式である。とにかく忙しく時間がない。何も事が進まない感じ。連日、朝には精神的にリセットできているが、土曜日は寝るだけで何もできない。
土曜日のレストがあって、ようやく日曜日に何かをやろうという意欲が湧いてくる。ただ、翌日の月曜日は、確実に電話が鳴り続けて激務となるので、活動はある程度、抑制されたものになる。

結果として、2012年ごろから続いたFacebookへの投稿も、ほとんど見るだけの状態となってしまった。

D社の頃と何が違うのだろうか…①作業服を毎日洗濯していること、②毎日、散髪をしていること、ぐらいしか思いつかない。

一時期は、朝4時起床で、睡眠時間も4時間半といった具合だったが、早出禁止令が出てからは5時起床となった。ただ、その分、帰宅が遅くなるので、ゆとりは全く無い。
(※理想的生活をいえば、5時起床が最適だと思う)

この睡眠時間4時間半というのは、後述するPG時代でも滅多に無かったことだ。
当時、の仕事ペースだと、終電で帰宅し、深夜1時半に就寝。6時半起床だったから、睡眠は5時間である。

他、変わったことといえば、
・入浴ではなくシャワー中心の生活。時短?石鹸からボディーシャンプーを使うようになった。
・土日の昼食は意識して外に買いに出るようになった。
・朝、実家に顔出しする関係で、虫よけスプレーを使用するようになった。ダニ除けスプレーも使用するようになり、毎年、盛夏時期に悩まされていた謎の虫刺され(恐らくダニ)から解放された。

【社会状況は変化したのか?】
最近、認識するようになったのだが、1994年頃から、仕事は「忙しい・きつい」ままではないか?むしろ状況は緩やかに悪くなっているようにさえ感じる。

①1986~1988年、プログラマー(3か月無休、最大210時間/月)
②1989~1992年、サービスメカニック。低所得者層ではあったが、社会全体にゆとりがあったように思う。思えばそれがバブルだった。
③1993年、本社移動。電算室。PG時代に逆戻りだったが、残業はPG時代と比べ物にならないぐらい少ない状況。年間休日は109日で、やや少なめ。有給消化はままならぬ状況。
④1994年、本社屋大規模改修。いろんな意味で忙しく辛い状況。
⑤1995年、阪神淡路大震災。本社屋改修があと少しで完了という時期に振り出しに戻り、精神的に辛い状況。本当の意味で心穏やかに感じられるようになったのは、六甲道再開発完了の2007年だった。
⑥1996~1998年、安定期?
⑦1998~1999年、全社システム撤廃、メーカーオンライン移行。ほぼPG時代に戻った感じで、社内の移動は全て駆け足という状況。この当時の平均残業時間数は120時間で①のような極端な状況は無かった。一方、プロジェクト達成の成功体験。
⑧2000~2003年、システム移行後の開発。ある意味、安定期?
⑨2003~2008年、2003年に経理部に移動により状況が変わる。
⑩2008年、リーマンショック。与信管理・コンプライアンス
⑪2010~2012年、退職後、生活が安定しない。一念発起し職業訓練校で出直し。
⑫2013~2023年、ビル管理。人が足りない状況が改善しない。

【本当に悪くなったのは?】
各種資料をネットから拝借してみたが、社会が本当に厳しくなったのは、2008年のリーマンショック以降ではないかと思う。リーマンショック以降、会社はコンプライアンスを言うようになり、加えて極めて限られた最小限人員で運用する傾向が強くなった。2023年の今、それの傾向はますます強くなる一方だと思う。以下、ネットからの拝借になるが、各資料がそれを物語っているように見える。

〇ベースアップ

1995年頃までは、バブル余波で、まだ何とかなっていたのではないか?そこに阪神淡路大震災である。ちなみに1995年の新卒採用は3名のみだったと記憶している。2003年ごろの「底」と経理移動が重なっているのは偶然。

金利の変動やはり、ベースアップ資料と同様に1995年あたりに転換点があるように思える。

〇有効求人倍率1994~2003年ごろまでが就職氷河期。所属した会社では、人を雇わない代わりに、首切りは無かった。リーマンショック以降、会社がコンプライアンスを言うようになって以降、実感として「常に人が足りない」が定着した気がする。

〇失業率有効求人倍率の裏返しになっているはずであるが…

〇GDP

1973年のオイルショックから1991年のバブル崩壊までの約20年が安定期だったのか?そんな時代に中学、高校、大学を過ごせたのは幸せだったといえよう。