安藤忠雄の「4m×4mの家」と舞子の瓦工場(2020/08/03)

大阪の「こども本の森 中之島」オープンに関連して、一昨日、民放で安藤忠雄の特集番組が放送された。泊り勤務なので録画をしておいた。

昨日の朝は天気も良く、久々に徒歩で帰宅する。タイムリーでもあり、途上に建つ安藤建築の「4m×4mの家」をFbにUPしてみた。

その後、安藤建築に関して少し調べてみる。「4m×4mの家」が竣工されたのは2003年ということらしい。

当時、通勤電車から毎日のように建築中の「4m×4mの家」を眺めていたのだが、それが安藤忠雄の設計だと知ったのは、その年の年末か、年明けぐらいに放送されたNHKの特集番組だった。

そりゃもうびっくりしたわさ・・・小学校からの馴染みの場所に、建築家安藤忠雄設計の住宅が建てられたのである。

そして2005年頃だったか?浜辺を散策した時のことである。
馴染みの浜辺に異変が起きているのに気が付いた・・・
砂浜のあちこちに杭が打たれロープが張られ、立入り禁止の札が掲げられている・・・
浜辺は皆のものである。いったい何が起こったのか?
思わず憤りを感じたのだが、そこでふと思い出したのが、母が佐賀から出てきた頃に聞いた地元の話だった。

何でも、この辺りの海岸は浸食が激しく、沖の海中に土地の所有権を持つ人が多く存在するらしい。そういえば、沖を潜ってる際に石の道標(石柱)らしきものを発見したことがあったが、何か関係があるのかもしれない。

そっか・・・みんなの砂浜だと思って遊んでたのは、所有者のある土地だったのだ。

あれから15年・・・海岸通りにはカフェが林立し、砂浜は区画化され、ショップを経由しないと立ち入ることはできない。波打ち際ではマリンアクティビティ、沖に出ると漁業権・・・と、子供の頃のように、おいそれと潜りに行けなくなった。
砂浜事情は複雑化しているようである。

さて、「4m×4mの家」の施工は(株)中田工務店が請け負っている。
既に解体されているが、東に隣接していた「4m×4mの家Ⅱ」も中田工務店だった。

そして「4m×4mの家Ⅱ」の跡地に建てられた「CLTカフェ」(閉店?)や、アジュール舞子に隣接するホテル「セトレ神戸・舞子」と、その別棟などが、強く安藤建築の流れを汲んだ創りとなっている。

【CLTカフェと4m×4mの家】

 

さしずめ地元の海岸は、小学校の頃から現在に至るまで、僕の大切な遊び場だったわけだが、かつて付近には崖に囲まれた、仮面ライダーのロケ地のようなワイルドな遊び場があった。
それがJR朝霧駅の東方、狩口台の「粘土場」である。

子供の頃は、そこがなぜ「粘土場」と呼ばれているか?考えもしなかったが、2011年に神戸市立図書館で、明治初期の舞子浜の写真を見つけた際、あることに気付いた。

遠くに大きな煙突が2本写っていたのだ。
そこは位置的に粘土場の浜側であり、煙突は何か焼き物の工場だったのでは?と直感した。だから粘土場と呼ばれていたのか・・・

その後、垂水図書館の郷土史コーナーの資料より、粘土場の浜手に瓦工場があったことが確認できた。
今回、古地図を再確認してみると、何やら地図記号が描かれている。調べるとそれは瓦工場のマークだった。

そして、この付近・・・実は今でも一部残されているが、地元の庄屋・F氏の所有である。
小学校1年生の時の担任Y先生によると、2018年に解体されたが、長年、JR朝霧駅前のシンボルとなっていた明石染土の駅前ビル・・・
この明石染土がF氏一族の経営なのだという。

元々、狩口から朝霧にかけての山を削って、それを「い草」用の染土として扱ったのが始まりらしい。なるほど、それで家の周辺には、削られた崖と空き地が多かったのだ。もしかすると粘土場と瓦工場もF氏一族が関係しているのかもしれない。

だとすると、F氏一族は舞子の西、つまり西川(山田川)の西岸一帯・・・それはその昔、明石藩の領主の狩場であった狩口の、浜手一帯の土地を所有していたことになる。
これは、財閥とまでは行かないが、大庄屋各以上のものがあったのではないか?何か明石藩と関係があるのか??
もしかすると、「4m×4mの家」や「CLTカフェ」も何か関連しているのかもしれない。

安藤忠雄からとんでもない展開となった・・・

 


白黒加工すると一段とモダンに見える
安藤建築「4m×4mの家」


青;現在の岸壁、赤;所有権?、黄;大昔の岸壁?
少なくとも赤の線までは所有者の管理地である。


昭和30年代、砂浜の浸食激しく、いろいろと対策が講じられている。粘土場は再開発?


昭和21年、米軍撮影による。砂浜は、まだかなり広さがある。


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写真を拡大して画像加工すると、より明確に煙突が確認できる。