映画「ベスト・キッド」(1984年)のセリフにこういうのがある。
「バランスが大事だ。空手だけでなく人生も。」
Lesson about balance. (バランスについて学ばねばならない)
Lesson not just karate only. (それは空手だけの話ではない)
Lesson for whole life.(それは人生全般についてである)
これは仏教における「中道」を意識したセリフだと感じている。
「中道」というと、全般的に、英訳「Middle Way」のまま、「中立」と捉えている人が多いように思う。それは間違いではないが、かなりの誤解だといえる。
その昔、神戸新聞のコラムで興味深いものを見つけた。文面から察するに、911直後、米大統領の演説直後だと思う。そのコラムの抜粋は以下のようなものだ。
亡くなった作家の遠藤周作さんのエッセー集から思わずうなずきたくなるような一文に出会えた。言うならば「三分法の考え方の勧め」である。私たちが習慣的に身につけている二分法の考え方は、幸福と不幸、健康と病気、善と悪というように全てを対立した二つに分けて考える思考方法。ところが遠藤さんは、「まったく幸福とは言えぬが、しかしそれほど不幸でもない三つ目の状態だってある。人生や人間は二分法では割り切れず、その中間か、もしくは対立したものを併合している状態だってある。だからこれを三分法と言って良い」としたうえで、「私は皆さんに今後の人生ではできるだけ二分法の考え方を捨てて、三分法の考え方に慣れていただきたい」としている。
これで思い浮かぶのが米大統領の演説。「どの地域のどの国家も、今、決断を下さねばならない。我々の味方になるか、あるいはテロリストの側につくかのどちらかである」。
二分法の典型例だ。明快で力強くはあるが、今後の世界に危うい思いを禁じ得ない。
ここで言う「三分法」というのは、遠藤周作氏が考えた言葉だったのかもしれない。文面からすると、書き手は日本の中立的立場を求めているように思える。
しかし、遠藤周作氏としては「中道」や「中庸」を言いたかったのだろう。その、中道と中庸という言葉をネットで調べてみると、
「中道」
①一方に偏らず、穏やかなこと。中正の道。「―を歩む」
②目的を達しないうち。中途。半途。途中。
③富士参詣の登山者が、富士山の中腹をめぐること。「―めぐり」
④〔仏〕 仏教の基本的教義の一。両極端に偏らないこと。対立する見解や態度を克服した立場。対立の内容については、快楽主義と苦行主義、自己を永遠とみる常見と死後はないとする断見、有と空、空と仮など、教派によって諸説がある。
「中庸」
①考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。
②過不足がなく、極端に走らないこと。また、そのさま。
③古来、洋の東西を問わず、重要な人間の徳目の一とされた。
④中道。「―を得る」「―にして過甚ならず/西国立志編(正直)」
このように中道・中庸という考え方は、極端を廃して「バランス良く」を目指すことであって、英訳「Middle Way」の言葉通り「ど真ん中」を行くものでも無く、また「中立」でもない。
「中道」は適正を維持するために「ころあい」を見つけ出す哲学とさえいえる。
その「ころあい」についてだが、以前、「職場の教養」という小冊子に、このような説話があった。
ジュースが1本ありそれを2人で分けるとしたら、あなたならどうしますか
そう聞かれた場合、大抵の人は「丁度半分になるように分ける・・・」と答えるでしょう。しかし、中道的に考えると「丁度半分に分ける方法」を思案する前に、お互いが半分の量で満足することを、まず「覚えなければならない」ということになります。つまり、二人共にジュースが、まるまる1本でなければ満足できない・・・としたらそれは争いに発展してしまうということです。
この二人の於かれた状況下での「ころあい」は、互いに「ジュース半分」が正解・・・ということになるだろう。
中道という考え方で一番難しいのは、「於かれた状況下で自分のころあいがどこにあるか?」を知ることに尽きる。例えば、それが野菜ジュースで、一方が野菜ジュース嫌いなら、きっちりと分け合う必要もない。
そう考えると、その人にとっての「ころあい」は、本人はおろか、第3者にもわからないのかもしれない。
例えば、サラリーマンをしながら全日本並みのトレーニングをするとしたら、やはり「ころあい」を超えていると言えるが、その方がサラリーマンをしながら全日本を目指しているのならば、それはその人の「ころあい」となる。しかしその姿は、第3者である同僚の目には奇異(極端)に映ることだろう。
このように、何かを目指す時、ある時期に極端なことに取り組んだとしても、僕はそれが「ころあい」と理解すべきだと考える。
いずれにせよこの世は「諸行無常」なのだから。