祖父母の件・覚書(2020/11/06)

祖父母の件・覚書

祖父は父が2歳の時(昭和6年)に亡くなり、祖母も父が23歳の時に急逝した。祖母が亡くなった当時、父は3年間の代用教員、3年間の小学校正教諭を経て進学した佐賀大在学中で実家におらず、家財の処分は縁者に任せっきりとなり、写真もほとんど残ってない。

お墓のある立石集落は、松本常太郎、勘之助が生まれ育った時代は大変な貧農地区だった。(台地の上にあり農業用水には苦労したという)

お墓から北に120mの位置に、近年、携帯電話の電波塔が建てられたが、その北側にある柿の木(?)付近が屋敷の存在した本籍地である。

ここは現在でも礎石などが確認できる。従兄から聞いた伯母・昌の話によると、昭和20年代まで本家が廃屋となりながらも存在していたらしく、その解体処分を祖母と伯母で行ったらしい。

(※松本荘幸氏によると、昭和20年代まで集落の作業場として使用していたという)

松本常太郎は長男として家を継ぐべき立場だったが、優秀な人材だったことから、食べるための道として、仮屋村(玄海町大字仮屋)の山口酒造に奉公に出る。尋常小学校を卒業して直ぐ、明治39年頃の事ではないかと考えられる。

常太郎が通った小学校がどこなのか?判明していない。現在でも立石の近隣に小学校は無く、当時、分教場はあったにせよ、周辺の小学校といえば、入野小学校、田野小学校(高串)、有浦小学校と考えられる。もしかするとお寺など、寺子屋のようなものだったのかもしれない。

(※松本荘幸氏は、高串の田野小学校まで徒歩で通っていた)

仮屋村の山口酒造に奉公に出た常太郎だったが、食う為とはいえ、農家の長男か奉公に出るのは極めて異例の事と言える。常太郎の祖母にあたるツエが、肥前国石田村・山口利作の二女ということで、山口家と縁戚関係にあった可能性も否定できない。
(※後に父・松本淳が暮らす仮屋村石田という地区があるが、 その石田という地名と、ツエの出身である肥前国石田村との関連は確認が取れていない )

仮屋村の山口家は、玄海町誌によると周防国大内義隆が謀反に破れ、その子孫が西松浦郡古子(伊万里市)に逃れた際の末裔にあたり、山口良七の代で分家し、現在の唐津市玄海町仮屋に居を構えたのが始まりということである。代々、漁業協同組合長などを仕切る大庄屋格の家だった。
(※四代目、山口栄三郎は仮屋尋常小学校の火災焼失による再建(明治17年)にも尽力しており、旧仮屋小学校にある石碑に名が刻まれている)

酒造業は五代目の山口長治の時に始めたようである。父・淳が祖母から聞いたところによると、ブランド名は「巌ノ松」だった。酒造業については、昭和初期?二期連続の仕込みの失敗と、続く火災により廃業となった。

父の親戚で同級生でもある中島照夫氏によると、酒造業を行っていた場所は2ヶ所あるとのこと。ひとつは山口本家のあった仮屋村の一帯で、現在の石田川橋から山口パーマ店付近までを所有していたようだ。ここは水が悪かったらしく、良い水を求めて有浦村の有浦小学校の裏手、現在、集合住宅が建っている付近に移転したということ。

(※中島照夫氏によると、有浦に移転後、火災焼失したのではないか?)

現在、山口家は、仮屋にある山口パーマ店がその子孫に当たり、戸主は入野村役場の助役をされたが、直縁ではなく、長治氏以前のことは全く伝わっていないとのこと。

奉公に出た常太郎は、二十歳で徴兵されるまでを山口酒造で過ごした。

大正3年佐世保海兵団入団。大正4年に戦艦敷島の機関兵となり、第一次世界大戦の関係(日独戦役)で朝鮮の仁川港に派遣されたり、大正13年には潜水艦・知床の沈没救助作戦に従事する。

大正10年に常太郎の後を追いかけて来た山口家の三女・イウと結婚。家の格が違うため駆け落ちだったらしい。

(※伯母の昌証言。山口家側の戸籍では結婚とは記載されず、単なる除籍扱いとなっているのは、そのためかもしれない)

祖母のイウは、当時としては珍しく活発な女性であったようで、有浦尋常小学校の代用教員をしたり、逓信省の関係で東京にも行ったようだ。
父の証言によると、東京の大火災(関東大震災とは別の)に遭い、それがきっかけで郷里に戻ったらしい。

(※調べると、1921年・大正10年4月7日に浅草の大火があったが、同年4月8日の入籍では、やや無理がある)

大正10年、佐世保で長女・昌(淳の姉)が生まれる。

常太郎は大正13年結核に罹患し退官し、郷里に戻る。郷里に戻ってから亡くなるまでの8年間の足取りは全くわからない。

昭和4年に長男である私の父・淳が生まれ、昭和6年、常太郎は有浦村長倉にて没。37歳だった。長倉の地番には吉田医院という医者があり、松本酒造からも徒歩圏内、郷里での足取りに何か関連があるように思える。
常太郎没後、イウは実家に戻って戸主の父・長治を看取るも、遺産相続争いに巻き込まれ、父が10歳の頃?仮屋村石田に身を寄せることになる。

私の父は、物心ついた時は既に仮屋村にある山口家の屋敷に住んでおり、小学校高学年の頃までの思いでは、全て仮屋の三角屋根の屋敷にある。

父の同級生によると、当時、松本長治氏が家の前で日向ぼっこをしているのを、度々、見かけたという。父には長治氏の記憶はない。三島神社まで散歩に連れて行ってもらったらしい・・・という証言はある。