名も無く貧しく美しく(2021/09/02)

高峰秀子主演「名も無く貧しく美しく」(1961年)

何が幸せで何が不幸なのか?それを考えさせるストーリーだが、このろうあの夫婦が、不自由で貧しくながらも幸せで、姉弟らが不幸だ・・・という、単純対比でこの作品を結論付けるのは尚早である。物語の終盤、やや強引に、自分達夫婦は幸せで、姉たちが幸せかどうか?わからない・・・と、強引に結論付ける下りは、現代の視聴者であれば反発を感じるかもしれない。

大切なことは、お金が無ければ生活が出来ないが、その生活に必要なお金を得るために、どこで何をどうするのか?そしてそのために、生活の中の些細なところに幸せが存在することに気付く能力・・・このろうあの夫婦は、社会の底辺で不自由な生活をしているが為に「それが見えている」のである。

この夫婦は決して幸せではない。しかし、幸せである。そして、その幸せはかなり微妙なところで維持されている。この物語の登場人物を少し変化させるだけでとてつもなく物語は変化する。

終盤でハッピーエンドかと思われた矢先に高峰秀子演じる秋子は弾みでトラックに轢かれて亡くなってしまう。幸せとは堅固なものでは無く、そして各人の「視点」なのだ・・・と、そしてろうあ者の置かれた現実を、秋子が亡くなることで、最後に監督は伝えたかったのだと思う。

また、この物語全体にプロレタリアートな雰囲気が流れているが、秋子の母役に原泉をキャスティングしている点で余計にそう感じるのかもしれない。

原泉は戦前の治安維持法下で逮捕歴を持ち、また小林多喜二惨殺の際にはいち早く駆け付けた生き証人でもある。小林多喜二・通夜の写真にて右端に写る洋装の女性が原泉、彼女である。このような関係からも、この作品がプロレタリアート色の強い作品にジャンル分けされると思うが、社会・共産主義崩壊の現代にあっては、労働の尊厳・美しさを伝えることよりも、この夫婦(家族)の、生き続けるためのたゆまぬ努力に視点が当たるはずだ。多種多様な価値観を認め合う現代においては、イデオロギー的対比による白黒的な作品は難しく、現代でのリメイクは困難かもしれない。

何が幸せか?という問いは、むしろ「脳内の報酬系」に話は移るかもしれない。

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