新・滅私奉公(2023/09/29)

「滅私奉公」という言葉がある。自己犠牲を強いる言葉として日本社会で長らく使われてきた言葉だが、既に死語と化している。使われたのは昭和40年代までと思う。
不毛地帯(ドラマ1979年)近畿商事・大門社長の社長室に、社訓として掲げてあったのが印象に残っている。

会社の女性職員を見ているうち、「滅私奉公」という言葉に行き着いた…が、かなり意味いは違う。思い付いたのは、むしろ逆の意味だった。

これをきっかけに「滅私奉公」という言葉を調べてみたところ、一般的には自己犠牲を強いる究極の言葉として意識されているようだが、よく調べるとそうでもないことがわかってきた。思うに、長年、かなり違う意味合いで使われ続けた言葉かもしれない。

◇私的な解釈

滅私=自分の感情を消す。感情を表に出さない。感情だけで仕事を進めない。

奉公=公の価値基準で行動する。「公」には自分自身も含まれる。

「滅私奉公」の究極の形として特攻作戦が挙げられるが、私的解釈で考えると、滅私奉公とは、死んで国に尽くすのではなく、他人を踏み台にすることなく、生き残って戦い続けることになる。

自分を消して民主的に行動する=消私動民が正しいのかもしれない。

そうして考えると、不毛地帯(ドラマ1979年)中の「滅私奉公」は、つまりは「死私奉大門」であった。

では、社長や上司の指示が「公としてなのか?個人としてなのか?」が問題となってくる。会社組織が、社長中心で独自性を前面に打ち出すのは大切だが、「公としてなのか?個人としてなのか?」の判断は極めて難しい。

CS・CDの究極の形といわれるとある「夢を売る巨大テーマパーク」の従業員は、大半が契約社員低所得者層。アルバイトで食いつないでいる…と言われていた(現在は知らないが)これこそが「滅私」である。

ただ、結果として、民のためにならない会社、コンプライアンスの順守ができない会社、は消えて行く運命にある。

大局を注視しながら進んで行くことが大切ではないか?