父の死去(2023/10/28)

2023/10/12(木)18:02頃に父が亡くなった。

この日は、朝の通勤時から上手く行かず(0727時・遅い電車、急病人にて遅延)今日は潜在意識が会社に行くことを拒否しており、とことん悪い日になるだろうと読んでいたが、こんなことになるとは思いもしなかった(※謎の現象)

直前の休みは、土~月曜の三連休。予定ではお墓の草刈りで佐賀まで行くことにしていたが、金曜の夕方に案件が集中…延期とする。翌、10/14(土)~15(日)も候補日だったが、実家のエアコンの汚れがひどく、衛生上の問題があったので、10/15(日)の13時より業者による洗浄作業とした。これにてお墓の草刈りは今年2回目の保留となる。

父、10/2より2階の普通病連に移動となる。それに伴い面会日が水・金から火・木となった。そのタイミングで正則さんから、「天橋立に行く予定があり、寝屋川の兄(靖則さん)宅経由で、10/26(木)に父に会いたい…」との連絡があった。面会日が木曜日に変わったタイミングでもあり、その旨を伝える。
しかしながら、いつも寝てばかりだし、面会時間は10分と短時間であり、認知症により会ってもわからない。ところが正則さん、それでもダメ元で行ってみるという。後に葬式の際の来訪の際に聞いたところ、その足で実家の母にも会ってみるつもりだったらしい。

この週は、火曜日も朝から案件が集中し、飛ばし気味のスタートだった。父が亡くなったのは週開始3日目の出来事だったので、水曜日の感覚である。

【ほか直前の状況】
・三連休はワークマンのカッパを2セット購入。山本七平「空気の研究」、ひろさちや「仏教の釈迦、キリスト教のイエス」他(母性社会日本の病理・河合 隼雄 )再確認の意味もあり、読んでいた。
・10/07(土)の日中、母が庭で気を失い、再び顔面に怪我。今回はかなりへこんでいた。引き続きの父の死去で、母にとってはダブルパンチだった。
・「どうする家康」朝鮮出兵名護屋城。三連休中の放送だったこともあり、墓の草刈りついでに久々に名護屋城に行ってみようと考えた。
・「遥かなる山の呼び声」第3話、クリントイーストウッド「ゴー・マッチョ」

【9月の状況】
・マンションの大規模改修開始に鑑み、ベランダの遮光ネットの取り外し。
・「さかなのこ」、鞍山地図の関係など。

【ラッキーだった点】
・昨年4月に転職し、24勤務がなくなっていた。
・電車の便の良い三ノ宮勤務となっていた。
・9月、自身の業務支援ソフト完成し、仕事にゆとりがあったこと。

【ドキュメント・父の死】
・1540時頃に帰社。1553時、現調写真をフォルダに移動作業中、病院より電話。父の容体急変とのこと。仕事があり直ぐには行けない旨を伝えると、家族の誰でもよいから直ぐに来れますか?とかなり切迫した口調。その一言で状況が読めたので、作業を放り出し急ぎ病院に向かう。妹にメール、父の容体急変、母を迎えに行ってもらえるか?
 →8月までの多忙な状況なら、泊り勤務の際なら、果たしてどうだったか?

・1608時頃、三ノ宮駅、1623時頃、兵庫駅着。徒歩にて1630時、病院着。父、CT撮影中。室内より大声。扉が揺れる。普通ではない雰囲気。状況の詳しい説明なし。
 →交通の便の良い三ノ宮での勤務。これが垂水や六甲道ならどうだったか?
 →妹に途中経過を伝える。

・1650時、203号室にて面会。主治医から説明を受ける。入院直後のレントゲン写真と本日のCT画像の比較。肺の半分に水が溜まった状態(40%程度)加えて心臓肥大あり、とのコメント。「朝まで持たないだろう。」
 →朝まで長い夜になりそうだと思う。
 →母と妹はそのうち到着するだろう…そんな感じ。

・今朝まで元気にしゃべっていたという。肺水腫でもあり、呼吸不全でガーガーという叫び声のような、うめき声のような、かなり苦しそう。

・視線は左を見て動かない。見えているのか?よくわからない。いわゆる「白目をむいた」状態である。ただ、視線を合わせて語り掛けると目で答えているような感じはする。視線に向かって「〇(僕が)来たよ。」というと、涙を浮かべていように見える。それが2~3回あった。たぶんそうだったのだろう。

・手は冷たいが、脈打つ感じはある。ただし、手を握り返して来ることは無かった。手が冷たいので看護婦さんが電気毛布を入れてくれた。

・1745~1750時頃、次第に叫び声が静かになって行く。肺の水を出す薬剤を入れた点滴をするが、尿は全く出ず。腎臓機能なし。看護婦さんが血圧計測、80程度。何とか計測できたという感じ。
 →沈静化しているのではないか?と一安心する…が、そうではなかった。

・18時前~ぐらい、時々せき込む。看護婦さんが吸引をしてくれたがタンは無いという。

・1755頃、左を向いていた目が正面を向き始め、叫び声が無くなる。モニター確認、ほぼ呼吸停止となった。「呼吸が止まりそうです!」と看護婦さんを呼ぶ。急に慌ただしくなる。看護婦さんが手を摩ってくれる。手を握ってがんばれと声をかけると、何度か血圧が戻る。モニターに僅かな変化があった。魂が戻って来た感じ。次第に舌が紫色に変化。1802時頃、息を引き取ったようだ。戻ることは無かった。

・1804時、医院長により瞳孔確認、死亡認定。手を握ると脈は無し。看護婦さんが身体を拭いてくれた。戦い終わった身体、武具を脱ぎ捨てたような感じ。

・遺体の引き取りについて聞かれる。一旦、帰宅できるのかと考えていたが、そうではない。実家に証書があり葬儀互助会の連絡先がわからない。ネットで調べるも、スマホ地図では上手く表示されない。困り果てていたところ、看護婦さんがフリーダイヤルを教えてくれた。電話すると上手く互助会の登録も判明。
 →互助会ネットワークがあり、他社でも互助会の納付金が有効だという。

・1940時頃、母と妹が来る。20時前に引き取り。靖則さん、正則さんに連絡。

・2号線にて実家近くの葬儀場まで。途中、駅前にて祭りの隊列で渋滞につかまる。
 →妹にバトンタッチして母を迎えに行くか、かなり迷ったが、祭りの隊列に巻き込まれていたら、看取りは完全にアウトだった。

・2030時、葬儀場着。

・実家経由で互助会の証券など確認。22時前に帰宅。

・2330時、消灯。長い一日が終わった。
 →長い一日だったが、1530時~亡くなるまで3時間。引き取りの手配から葬儀場に落ち着くまで2時間の駆け足だった。