プルーク暴言A・008号「虚空!ナンバ走り・歩き」

【プルーク暴言A】008号「虚空!ナンバ走り・歩き」

さて、2004年の師走。年末の気忙しい時期・・・不本意ながら共同通信社の記者と直接やり取りをすることになってしまったのだが、先方も多忙な中、時間を割いてくれる訳だから、こうなったら行く所まで行くしかない・・・

 

共同通信社の記者とのやり取り】

東京に電話をしてからFAXをしたのか?記憶が定かではないが、いずれにしても担当記者から丁寧なメールが届いた。以下に記述する文面は、そのメールのやり取りを抜粋している。
※担当者とのやり取りに関しては、そのやり取りをHP等に取り上げて悪用しない・・・という約束をしているが、相当の年月が経過しているので、ここに抜粋という形で紹介する。

担当記者より(抜粋)
「どのような経緯でこの記事を書かれたのでしょうか?直接、提唱者にインタビューされたのでしょうか?末読選手の写真を見る限り、記事の内容と全く異なると思いますが・・・。」
さまざまな事象の中から、現代の身体論を代表する言葉として「ナンバ」を取り上げています。文中に登場する矢野氏などには直接、私がインタビュー致しました。この企画は、ナンバ走りやナンバ的な動きの理論や実効性を精緻に検証するための記事ではありません。ナンバの技術論に関しては、さまざな意見があると思います。また各人の「ナンバ」解釈があり、必ずしも一致していないのは事実です。

「では、肯定意見だけを掲載して、否定意見を掲載しないのはなぜですか?」
技術的な検証をするならば、他のスタイルの記事にしなければなりません。またナンバの技術的観点に関してのご質問ならば、直接、提唱者(甲野善紀氏や矢野龍彦氏)に伺われた方がご納得頂ける結果になると存じます。

 

とまぁ、数通のメールでこのような感じのやり取りが行なわれたが、ここでもやりとりは水掛け論だった。仕方がないので、自分がクレーマーにならないうちに、ここは素直に引き下がることとする。

要するに、共同通信の記者も、甲野善紀氏や矢野龍彦氏から取材したことを記事にしているだけで、自らが提唱者の意見に賛同している訳ではない・・・ということだ。
恐らく、記者という仕事柄、ネタがあれば自分が賛同するしないにかかわらず、読者が興味を抱く様、記事を書くだけなのだ。

記者は「読者の興味ある話題を代弁して取材している」・・そんな取材報道の現実を知るきっかけになった。

 

結局、「ナンバ」に関しては、納得するどころか不信感を感じたままの幕切れとなってしまった。

とはいえ、売れっ子の甲野善紀氏はともかく、矢野龍彦氏に関しては、いずれ自論をまとめたものを送付する機会もあるかと思い、その後、こつこつと資料を集め続けた。今回、このネタを披露するに辺り、その当時集めた資料がネタの原案になっているのは言うまでもない。

そして、いつしか時は過ぎ、Wikipediaで「ナンバ走り」と検索すると、私が当時感じていた疑念がWikipediaにそのまま掲載されているようになっていた。

Wikipediaナンバ走り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E8%B5%B0%E3%82%8A

 

【ナンバの誤解】

Wikipediaを読むと、8年前の私の判断は正しかったことがわかる。しかし、それでもなお「ナンバ」というキーワードで検索すると、反論意見はほとんど存在しない。むしろ、当時はまだ認知度が低かった「ナンバ」という言葉が、「プルークボーゲン007号」記述にしたままの論理展開で一般に定着してしまっている。

そこで次に、当時から思い続けてきた「ナンバ」に対する疑問点を記述してみたい。
※「ナンバ論」「ナンバ」「ナンバ歩き」「ナンバ走り」と、単語の使い方には注意しているつもりだが、紛らわしい場合あるのでご了承願いたい。

 

【一般的に語られる「ナンバ」・・前回(007号)より

①古来、日本人はその生活スタイルから、現代日本人と異なる歩き方・動作をしていた。それが「ナンバ」である。その特徴は、踏み出した足と同じ側の肩が前に出る「ねじらない、ためない(踏ん張らない)、うねらない」・・・というものであった。 そして、必ずといって良いほど「飛脚の走る図」が引き合いに出される。
※日本人の動作が和服により制約を受けた事は理解できる。しかし、下記の甲野氏関連のYouTubeサイトの事例を見れば、腕を大きく振るの現代風の歩きは、体幹のねじれが少ない。
(12秒附近のウォーキングのシーンに注目)
http://www.youtube.com/watch?v=DC66NZj8pJ4
むしろ現代のナンバ走りとされる末續選手の方が体幹がねじられている・・・

②昔の農民は走ることができなかった。そのため、西南戦争で薩摩軍に追いかけ回された新政府軍の、農民から徴兵された兵士が、多数切り殺される事態が発生する。そこで明治政府の政策により、腕を大きく振り、身体のひねりを多用した西洋式の歩行が取り入れられるようになった。そして次第に「ナンバ」のような歩き方は日本人の中から消し去られて行く。 現代の学校教育において、体育の授業で走り方や行進の仕方を教えるのは、明治維新の流れを汲んでおり、現代の日本人の走り・歩きは、教育によって刷り込まれた動きである。
※本当に昔の農民は走ることができなかったのか?人間が走り方を知らなかった・・・そんなことが有り得るのだろうか? 現代サラリーマンでもいきなり5~10km走れる人間はそうざらにはいないではないか。新政府軍の兵士がやられたという事例だけで、当時の日本人が走り方を知らなかったとするのは暴論と言える。
そして何より、追いかけた薩摩軍の兵士は走れたわけだから(笑)新政府軍の練度が低かったのではないか?
別の側面である、新政府軍と薩摩軍の修練度の違いや、装備重量(武器・甲冑)を検証しているのだろうか?
また、当時の子供達は現代の子供達よりも多くの時間を野山を駆け回って過ごしたはずだ。人間の歩く動作の基本は「四つ這い運動」(ハイハイ)であり、それは上腕と下肢を交互に使って体幹をうねらせる動きに他ならない。(これは一部の心理療法にも応用されており、効果を得ている。)そうやって子供達は自然の中で走りを身に付けていく訳だから、昔の日本人の成人男性がナンバの所作の影響により、走ることを知らなかった(忘れて?)というのは話が飛躍し過ぎている。
(※明治新政府軍と薩摩軍の話題に関して:「農民部隊」対「士族部隊」であったのがその勝敗の要員だったとする説で定着している。後日、明治新政府軍も士族出身の警視隊からの志願兵部隊「抜刀隊」を特別編成し、薩摩士族部隊を打ち破っている。)

③必ずと言って良いほど、陸上の末續慎吾選手など、複数のスポーツ選手が引き合いに出される。
※写真を見る限り「ねじらない、ためない(踏ん張らない)、うねらない」という言葉は全くあてはまらない。 むしろ積極的にねじり、うねっているように見える。
「ひねり」や「うねり」のない前進は、両足ジャンプ以外に無いのではないか?

④昔ながらのナンバを行うのは不自然であり、「現代のナンバは昔のナンバと異なる・・・という逆説が突然入り、末續慎吾選手の走りはあくまで「ナンバ」をイメージとしている・・・と、展開が変わる。
結局、そんな風に言ってしまえば、薩摩軍にやられた明治新政府軍の例や、走れなかった農民の話は、現代の「ナンバ走り」との関連は、全く無いということになる。
ならば、最初から「ナンバ」を引き合いに出す必要があるのか??

⑤そして、最新の「ナンバ走り」の写真が多数登場するのだが、よく観察すると腰と肩はひねられており、全て一軸運動をしている。どこにも飛び六方のような形は見られない。
イメージ 1
インナーマッスルを活用し、むしろ積極的に「うねっている」ため、腕の振りが少なくて済む走り・・・となっているのが、末読選手の走りの特徴といえる。結局「ナンバ」の所作との関係はない。

※ナンバの所作が身に付いて走れなかった明治政府軍の兵士、それを追いかけて切り殺した薩摩軍の兵士、ナンバをヒントにしながら全くナンバとは異なる走りをする現代ランナー・・・これらを関連付けるものは何も無い。

※私がザックを背負って走ったことでインナーマッスルを活用したひねりに気が付いたのと同様、現代のランナーは、ナンバの特徴である上腕の振りや、体幹のひねりの抑制の中から、インナーマッスルを活用した「ひねり動作」を見出すのではないか?

少しだけ話題をスキーに戻そう。
これら矛盾に満ちた「ナンバ走り」論が、すなわち「二軸ランニング」論へと展開し、さらにその曖昧な二軸論を引き合いにして日本スキー教程を混乱させている人物が市野聖冶ということになる。

 

続く・・・Schi Heil !!

 

ちなみに、ナンバ」そのものは存在するナンバ走り・歩き・・ではない)
下記、YouTube甲野善紀氏の動きを見てもらいたい。
http://www.youtube.com/watch?v=XhQx4bEqefw&feature=related
約束組み手とはいえ、これだけバリエーション多く多彩な動きが出来るのは、恐るべしである。相手の若者の表情を見れば良くわかる。もっとも甲野氏の場合は実刀を使うのが本来のスタイルというのをお忘れなく。