駄菓子屋の意義(2021/07/29)

駄菓子屋か・・・あまり考えたことは無かった。
外国人記者による「日本の駄菓子屋考」を読む機会があった。

考えれば、僕ら世代の少年期、駄菓子屋で過ごす時間というのは、ごくごく日常であり、駄菓子屋文化の無い(?)外国人記者が抱くような視点で駄菓子屋を考えたことは、僕自身、これまで無かったように思う。
記事の内容はさておき、「子供の居場所」「経済観の学習」という二つの視点で、思う所有り・・・だった。
特に「子供の居場所」に付いては、昨年のコロナ禍が始まった当初に感じた謎に繋がるものである。
子供は常に親が相手をしてやらねばならないものなのか?
という素朴な疑問である。
僕らが少年期だった1970年代と現在、また、都市部と地方では環境があまりに違い過ぎるので、比較はできない・・・これを前提とした上で書くと、
僕らの子供時代は、学校の授業が無ければこれ幸い・・・小銭をポケットにチャリンコで駄菓子屋へ向かい食料調達。学校の校庭やら周辺の空き地・河原などに造った秘密基地などで過ごし、夕食の時刻になるまで戻らないのが常であった。もしくは、17時半、18時から始まるテレビ番組を目標に帰宅である。

我が家は当時としては、やや流行化しつつあった「鍵っ子」である。学校が終わってから以降、自然に同級生が集まるか、そうでなければ一人で遊んだ。必ず誰かと過ごさなければならないわけでもない。


※イメージに合う写真が見つからなかったので、超精巧ジオラマの駄菓子屋を・・・これは「情景師アラーキー」氏の制作したジオラマです。

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異常な流れが続く(2021/07/29)

やっと、僕の方で発注した、マンションの方の廊下照明用タイマーの交換工事が完了した。それにしても忙しい。この異常な流れがいつ頃から続いているのか?日記を辿ってみたが、抜き出してみると凄まじい内容だった。

以下、その内容・・・

大きなところでは、針ノ木から戻って以降、GWまでに戸車交換工事でのゴタゴタがあったが、初っ端は5月30日のようである。

05/30、B。B2F女子トイレ水が止まらない。内部でピストンバルブ破損。また、錆で内径が狭くなり、プラスチック部材を取り出すのも困難。駐車場管理にて不要作業だった。

2021/06/05(土)E
Mgami氏と福祉トイレ(女子)天井灯交換。氏が管球を洗面台に置いたのでセンサーが反応し電極部を濡らしてしまう。夜の部、警備Mkataさん。巡回に出た途端に①福祉女子トイレのベビーチェアの上にパンらしき包みが置いてある。②3番館408号室より508が子供の足音がうるさい。③ワクチン接種の関係か?救急搬送

06/06、明け残Cの早朝、5時13分、父から電話。家の中がめちゃくちゃで直ぐに来て欲しい。5時48分、垂水警察署員と電話で会話。18時、実家で事情を聞いて帰宅する。翌日もB勤務。

06/13、明け。朝、警備隊長補佐が制服を忘れて取りに帰った関係で、2番館に行くのが遅れる。8時過ぎに2番館へ移動、誰も居ない。7時半頃、一般電灯盤№1にて漏電警報発報との事。10時半まで残業となる。

06/15、B。夜間蓄氷運転が止まる。発報・エラー表示は無し。

06/17、駐車場入り口の土嚢入替えの重量確認

06/18、明け残・F。7時50頃、総括が突如作業服姿で現れる。準備は準備は整っていたが、1番館側のAMIさんが急を突かれた感じとなった。夕方、管理から「水道メーター検針員からメーターが回っていると報告を受けた。」との事。確認すると住宅の洗管作業だった。翻弄される。

06/20、フィルター交換・洗浄によりギックリ腰

06/22、A。19時半より実家へ。洗面台下の水漏れが直らない。パッキンの劣化?

06/25、明け。朝の節約運転解除後、昨日確認のRFの避雷設備の再確認。

06/26、B。昼から2番館にて専有部6月分報告書印刷。14時半頃、外線電話にて廊下に人が倒れているとの通報あり。明日のB2F女子トイレ、ピストン弁、押し棒交換の準備。

06/27、明け。深夜1時半頃、防災の電話が鳴る。住民の騒音問題。7時半、総括出社。B2F女子トイレ、ピストン弁、押し棒交換。20時少し前より実家へ。洗面台の配管漏水のパッキン交換。全く上手く行かない。配管取り外し。自宅に持ち帰る。

06/28、インライントレ。夏前最終?。ロイヤルプロにて洗面台のフレキ配管購入。11時20頃から実家へ。母、コロナワクチン接種、秋山医院(13時~)母が出ている間に洗面台のフレキ配管取付け。水漏れ無し。12時過ぎに父に食事を出す。14時帰宅。

06/30・B。出勤時からどういう訳か?気乗りしない。出社すると7月のシフトが出来っており、母と自分のワクチン接種の段取りが崩れる。午前中の巡回後、B1Fトイレ男女共に詰まりとの連絡、対応。夜の部、巡回の際にACP-7現場にてスケジュール変更

07/01、明け。月初。帰宅すると、固定してた遮光ネット(大)が強風にて破損。買替となる。

07/02、E。左足首付近がしびれるようになる。シフトの関係でワクチン接種1回目の予約を取下げ。管理ARSさんとY塾の天井内の鳩の巣(卵)除去。図書館空調機のSA側インバーター故障の不具合報告書作成初の専有部での不具合)。ネットニュースにて神戸市内のワクチン接種予約6日以降は全てキャンセルの決定。

07/04、E。14時頃からAMIさんと、南庇・LED照明の不点灯調査。夕方、不具合作成。夜、明日からの熱源2台運転の最終確認実施。

07/05、明け・本日より熱源2台運用。本来ならノエビアスタジアムにてワクチン接種1回目だった。夜、夕食前に佐賀YUより長電話。21時、PC異常、動きが遅い。画面左側に縦線が入るようになる。

07/06、休み。PC起動時、画面左に縦線。19時頃、K/Aより電話。車検は嫁さんが車を取りに行く。有難い話だが丁重に断る。

07/07、E。夕方まで特に問題無く推移したが、18時、防災指令が発令される。管理事務所に確認などバタバタの最中に佐賀YUから携帯に電話、出れず。19時、区役所懸垂幕対応

07/08、明け。6時半に熱源節約解除。8時にR-2手動起動。帰宅するとSMSにスパムメール。18時少し前に佐賀・YUより電話

07/09、休み。奥村Mへ車検。かなり激しい雨。本日も18時過ぎに佐賀YUより電話

07/10、A。朝一番、C明け残のAMIさん、2F男子トイレ洗面台の配管漏水をテープにて補修。朝礼後に再確認に同行。

07/12、明け。夜中に悪夢で起きる明けの帰宅後、合計で4回、携帯電話に電話有り。①奥村M(ブレーキのパッドの当たりに関して)、②Mkawa氏(今夜の理事会に関して)、③AOKさん(北海道行に関して利尻のWnabeさん)16時14分にて起床、④佐賀YU(社内コンプライアンスに関する例の件)。その後、理事会19時15集会室へ出向く。タイマー交換はKDXに依頼

07/14、E。13時、管理より依頼。防災前の室外機を確認

07/15、明け。午後、Mkawa氏より電話。ツバメの巣の件。前の理事会?で、ツバメがカラスに追われかわいそうなので保護との事。

07/17、E。炎天下、散水スケジュールB~E系統までを夏季モード切替え。

07/18、明け。22時過ぎ、燃えるゴミ捨て(古・遮光ネット大を含む)

07/19、B。母、ワクチン接種2回目。1F住宅ゴミ庫のシャッター動作不良。電池交換を試してみるが、変わらず。B1F男子トイレ小便器の詰まりに関連して、管理MさんとB2Fの天井配管確認に行く。住宅・受水槽清掃。電極・電磁弁などの確認実施。午後、管理Mさんと11Fのケラバ内部のドレンを見に行く。デジカメで撮影、PCに落とす。説明書き作成。ゴミ庫シャッター、ブレーカーリセットにて復旧。SP-5ポンプ電線管腐食に関して不具合作成。夜の部までかかる。自宅マンション603号室・封水切れの件。

07/21、E。散水使用量について再確認要請。散水ホースのルートなど資料探し。F階段・吊下げ式サイン照明のLED化工事。昼前にMkawa氏から電話。603号室の住人、次の理事会に出席。マンション下の住宅で悪臭がしているらしい。昼から駐車場の閉館アナウンス増設工事。専有部Vベルト入荷、夕方に交換を済ませる。19時55、B2F駐車場の一番南の№10区画にて火災警報発報。散水の過去の履歴を調査。

07/24、E。朝礼後、AMIさんと3番館散水C系統の調査。B系統の水がC系統に逆流していることが判明。合計7箇所、漏洩箇所に廃フィルターを巻く。昼休み、迷子を預かり。3番館D階段のサイコロ灯の水溜まりを排除。7月度の専有部の報告書をまとめる。中古管球の在庫を再調査。在庫表を改訂。21時半、警備NISDさんより、3番館散水が吹き出している、また、住宅の12階の北扉が開場したままになっている、との事。

07/25、明け。薬注タンク(殺藻剤)のポンプを見てみる。バケツに呼び水をしてホースを引き出して確認したが、吸込みが弱い

07/27、E。昼休みまでに30分あったので、文化センターFCU点検を済ませる。
月例の後、MTSさんと文化センターのFCU点検実施。専有部の7月度点検表を作り込み。明日、SAIさんに印刷してもらえるように準備。17時半頃、総括が戻って来る。文化センターFCU点検断念。残りは明日、SAIさんにやってもらう事に。閉館の少し前、1F市民トイレ男子大便器(和式)詰まり。夜の部、警備Mtsuguさん巡回で不在の際に、年輩男性、スケボーを止めさせたい。30分ほど話を聞く。外灯巡回の際(19時57分)3番館・北の散水C’系統の元散水栓、シューっと流れる音。止水栓を閉止。受水槽メーター90㎥と異常値。年間動向を調べたが、このような値は水槽の清掃時ぐらい。シーツ交換。かなり時間がかかる。目が異常に痒くなる。埃に危険な成分か?

07/31、E。14時15、2番館409号室、CO異常発報15時まで何度も発報する。最終的に現場確認の実施。C勤・SIOさん、B勤HNDさんで1番館2F感知器の取り外し。障害警報音響停止にて夜間は乗り切ることに。18時より東玄関の内側自動ドアの枠組み復旧工事。かなり大掛かりな作業。途中、ハツリ箇所から青色のLANケーブルのような物が出てくる。そのまま埋め戻してもらう。

08/01、明け残C。1番館、障害マスク設定。

08/03、B。専有部報告書の1番館分欠落内容の修正など。2番館側にてほぼ午前中を費やす。その間、1番館・1F店舗WAKABA、照明が点灯しない。HSBさん何とか一人で対応。店主より点灯しましたとの返答。一人でE階段2~3Fタイルの剥がれ、貼付け

08/04、明け。帰宅時、管理人KBS氏、101号室の夜間、灯が点いてるか?で見える場所確認。「下まで行きますか?」というので、明けで疲れもあり断る。

08/05、F。DのNKN氏を専有部作業に連れて行く。14時頃、無線で呼び戻される。R-2冷房能力低下警報発報。その対応に1番館からB勤HNDさんが来る。

08/06、空E。2F・相談室(3)の風量確認。間違いなくアズビル側での相談室(4)が現行の(3)と判明。本日もD勤NKNさん同伴で作業。かなり助かる。その後、奥の部屋のアネモにバタフライ弁が見つかり、風量調整。かなり相談室側に空気が流れるようになる。1番館に行き、障害マスク設定マニュアルの仮作成。16時34、B2F奥の№10区画、感知器発報。今回も感知器の特定は成らず。移信停止は確実にできた。

021/08/09(月)B
夕方まで特になし。終礼は遅くなり18時過ぎた。シフトがまだ完全に出来上がらない。一人で三角看板復旧。噴水設備タイマー運転へ、フレスコ19時閉店・ACP-7現場にて停止(19時15)かなり疲れを感じる。

2021/08/10(火)明け
日報の水道使用量が抜けていた。
帰宅後、台風対策で収納していた遮光ネットの復旧。
昼頃、Mkawa氏より、本日の理事会の方向性について確認の電話。
タイマー工事のKDXからの請求書届く。管理人KBS氏より直接受取る
マンションの構造を調査。603、702、802は同じ系統。7~8Fにかけて屈曲あり。喉が痛い。プロポリスのど飴を食す。
理事会、19時15に集会室へ。603住人出席。封水切れの件討議、約1時間。全体では総会の件も含め、22時過ぎに終了。終了後、802宅PSをMkawa氏と共に再確認。

2021/08/11(水)E
ファン点検(3/4) 点検の途上で健康福祉課にて、先日の相談室(4)の件、未提出となっている空調延長依頼書の件。総括が食事の途中で戻って来て、そこから点検表を管理事務所へ。最終、20時少し前に退社。シフトの最終版が完成。大京・MKawa氏に理事会日程のメール。疲れで集中ができない。

2021/08/13(金)F
疲れにより朝に散髪午前中、腹が痛かった。昼前にトイレに行くと便は全く出ずにガスが驚くほど出た。また、久々に左股関節の痛みが出た。これは案外、腰の疲れから来るものかもしれない。
昼食時、激しい風雨。1番館の懸垂幕が吹き飛ぶ。区役所側の懸垂幕も危ないので、区役所・森下氏に連絡。2階のベランダからの改修は不可能で、住宅4階へ移動。台風並みの激しい風雨の中、全員で引上げ作業。まるで嵐の中の船員の様相。
15時頃、総務課より健康福祉課全体でアネモから風が来ない。健康福祉で一部、アネモを一段下げる。また、8月末まで全体の設定を1℃下げ、24℃とする(VAVは23℃)
16時半頃、2番館(公)高置水槽減水警報。B2F機械室に移動し、陽水Pを2台運転。その際、№1の電流値が通常の半分の25A程度。しばらく運転すると50~60Aに戻っていた謎。退社は18時半。帰宅後、散髪はせずに寝る。 

2021/08/14(土)東京「零戦の深い話し6」
9時17、新神戸京都~米原間で運航停止中。動き始めるというアナウンスを聞いてホームに入る。9時53、のぞみに乗車。京都付近でエリアメールが3回ほど鳴りまくる。京都北~米原関ケ原付近はかなり危ない感じ。線状降水帯に突っ込む感じだった。
10時57、木曽川通過。かなりの増水。
12時02、熱海、土砂崩れ箇所、通過。
12時38、東京着。
21時03、朝霧帰着。帰りに乗車した、のぞみ55号は姫路にて運行停止。東京で次発のぞみに乗車していたら新神戸まで辿り着けなかったと考えられる。

 2021/08/15(日)B
本日も午前中腹が痛くなる。巡回の終盤で一旦、防災に戻る。その際、泊りセットを2番館のロッカーに入れてしまったことに気付く。午後、A勤・NKNさんの点検終了後に、三角看板収納。B1F男子トイレ、金属製・傘置きが外れ対応。2本共にビスが折れており、取り付け不可
17時50頃、2番館電気室・感知器、発報。応援要請により現地へ。行くとフェンス内部開放型キュービクルの低圧側・配線ラックの上が点灯しているのを発見。取り外しに四苦八苦。脚立がやや低く、支柱に足をかけて片手で取り外した。作動式スポット型感知器(BV4221)「試験器接続空気管」と言って、危険個所で試験器を当てられないので、空気を送って作動させる方式。完全には取外せない。19時頃までかかり、夕食は後回しになる。21時15、引継で2番館へ。大型の脚立を2号EVにてB1Fへ運ぶ。据え置きのリフトを移動させると脚立が上手く立った。両手で作業。床に水溜まりができており、感知器が濡れていた。確認すると、かなり長期間の漏水痕が見られた。22時、1番館に戻る。やや喉が痛む。

2021/08/18(水)E
朝礼後、C勤AmiさんとB1F電気室の天井を見に行く。漏水箇所が増えていた。6600V近くの感知器の周囲に漏水痕を見つける他、天井漏水の箇所多数。異常を感じ、直上階の区役所・保護課(北西)のFCU確認。すると保護課の方々が慌ただしく床面の漏水対応に追われていた。壁から床面へ漏水。聞くと一昨日も漏水していたという。棚を動かして壁の点検口内部を調査すると壁からの漏水が認められた。
続いて北玄関へ向かう。保護課の点検口内部の壁面が、玄関脇のガラス窓に面していることが判明。そしてガラス窓内部が濡れている
更に上、玄関庇の水抜き穴からかなりの漏水。網谷さんを呼ぶ。
2F保険年金課の窓から玄関庇を確認するとビンゴ、排水ドレンに立派なシダが生えていた。Amiさんと玄関上部のドレン清掃実施。勢い良く水は流れた。
点検の途中、管理Mnagaさんが北玄関に居たので、脚立で自動ドア風除湿の点検口から庇内部を確認、内部の撮影に成功。内部に溜水があり、一部、日光が射し込んでいる場所があった。1番館側で、店舗・えびす、ミスド、がらんどう、断線警報

2021/08/20(金)B
引継にて、1番館側で今朝、断線警報が短時間の間に12回連続で発報したという。その後午前中8回の発報。巡回から戻ると、総括が戻っていると連絡あり。昼休み、食事の後に総括が1番館に来る。結局、寝れず
午後、Trad社長、2階廊下感知器(光電式スポット・アナログ式)の交換の後、断線警報の調査。14時半頃、終了。とりあえず中継器の端子箇所を再取付けしたそうだ。
その後、NknoさんがAC-1フィルター交換・洗浄に付いて、全く調べてないので基本的内容を教える。午後の巡回は15時半を過ぎた。結局、17時の管理報告~終礼まで活動しっぱなしだった。かなり疲れる。終礼の後、2番館北玄関の庇内部の溜水調査を行おうとしたが、区役所は閉館してしまった。2054、再び断線警報発報、24時までに9~14回目

2021/08/21(土)明け
00時~06時半まで断線警報発報14回
帰宅は10時半を過ぎる。
ICOCA、残金額4444円
18時半、Sotnさんから携帯に電話。日報に数値を入力しても反映されない

2021/09/11(土)明け
日報作成、9/7に書き込んでしまう。それが最大電力1017kWと同一だった。
2番館のB1F駐車場・防火シャッターが、J業者点検の際に復帰しなくなった。急遽、明けの僕とHNDさんが明け残となり、車両誘導実施。場所は入口ゲート入って直ぐの防火シャッターで、出口車路と交差させる形となり難しい場所僕がゲート正面に立つ。11時頃、応急処置完了。この対応メンバー、6/13の漏電火災警報対応に近似

 

 

 

五輪1964年東京大会・聖火ランナー(2021/07/26)

僕をおんぶした母が撮影した聖火ランナーである。どうやら西舞子が聖火の引継ぎポイントになっていたようだ。

五輪1964年・東京大会、聖火ランナー
撮影;生後7か月の僕をおんぶした母による(昭和39年9月24日)
国道2号線・山陽電鉄西舞子駅より東へ150mほどのところ 

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130042j:plain国道2号線の上り車線のみ。下り車線は閉鎖していることがわかる。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130046j:plain引継ぎのランナーたち。そして、山陽電鉄の線路内、建設間もない?建設中?の国鉄の高架にも人々が・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130051j:plainいったい、どこから上がったのか?!

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130055j:plain先導の白バイ。そして国鉄の貨車が写っている(高架が運用される前という証かもしれない)

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130100j:plain聖火ランナー・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130104j:plainおそらく狩口台の方から入って来たのだと思うが、それにしても建設中であろうし。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130109j:plain煙だらけの聖火の引継ぎ地点。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130113j:plain凄まじい煙・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130117j:plain発煙筒・・・これが僕の謎の記憶と一致するのであった。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726130435j:plain下り車線は閉鎖され、僕をおぶった母はセンターライン付近で撮影したことになる。

 

 

謎の聖火ランナー(2021/07/23)

五輪聖火の思い出?・・・
実家のアルバムに、1964年の東京五輪聖火ランナーが、山陽電鉄西舞子駅前の、国道2号線を走る模様を捉えた写真がある。タイミングもバッチリで、撮影はどうやら母らしい。
さて、僕の中でとある記憶が・・・
僕はこの記憶が長らく、64年大会の聖火ランナーを見に行った時のものだと考えていた。
両親と何度も協議したが、結果の出てない記憶である。
季節は11月頃、もしかしたら雨が降ってたかもしれない。時間帯は昼前だったと思う。僕ら家族は、当時住んでた舞子小学校前の幸神堂の入るアパートの2階から出かけた。その時、妹が居たのか?はわからない。父はコートか何か黒っぽい上着を羽織っていた様に思う。
西舞子商店街を南へ進むと人集りが増えて行く。
僕は何を見に行こうとしているのか?不思議に思った。祭りでもあるのか・・・
舞子六神社の北側、2国沿いの、西舞子駅のホームの東端か、少し東に行ったぐらいの所に着いた。
周囲には大勢の人々。
僕は珍しく父に肩車された。その少し後だったろうか・・・それは僕の目の前を一瞬で通り過ぎた。
花火のようにパチパチと弾ける炎。そして一面の煙・・・
それが終わるとあっさりと帰宅。何か美味しいものでも食べられると考えていたのにガッカリだった。
この記憶が64年大会の聖火ランナーというのは、さすがに生後8ヶ月では無理がある。とはいえ、両親に確認しても、何がしかの聖火ランナーを見に行ったのは一度きりだという。
また、母の推察では、64年大会の聖火ランナー西舞子を通過したのは平日だったのではないか?父は勤務で、記憶に登場するのは不自然なのだという。
実に不思議な記憶である。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723132838j:plain記憶の場所。母による聖火ランナーの撮影位置とはほんの少し違う。

 

明石歩道橋事故(2021/07/23)

本日から東京五輪開幕だが、実はつい先日「明石歩道橋事故」(明石花火大会歩道橋事故)から20年経過したのだという。

頻繁に通る場所でもあり、前年、前々年のことを思えば、他人事では無かった。現在の報道では触れられてない点もあるので、過去のまとめを今回は記述しておこうと思う。

【明石花火大会歩道橋事故】(写真は神戸新聞2001年7月22日夕刊より)
記憶も曖昧になって来たのでまとめておこうと思う。
明石海峡大橋の完成に併せて大蔵海岸がオープンしたのが1998年だったと思う。
歩道橋事故は、明石市役所付近で行われていた夏の花火大会が大蔵海岸に場所を変えてから3~4回目ぐらいだった気がする。
(※記事を読むと、歩道橋は2年前の完成とあるので2回目の花火大会だったのが正しいようだ。)
JR朝霧駅から自宅まで15分程度の距離にもかかわらず、花火大会の夜は毎回、想像を絶する混み様で、自宅までの道程を1時間ほど人込みを縫うように帰る必要があった。
3回目ぐらいだった気がするのは、予め花火の日程を把握して、JR舞子からの帰宅が成功するまで、何度か花火大会に遭遇してしまった痛い記憶があるからだ。
私が帰宅時にJR朝霧駅に着く19時~19時半頃というのは、込み合いも最悪の時間帯で、ホームから人が落ちても不思議ではない状況から改札を出て、花火が見通せる狩口台の海沿いの道にかけて、延々と見物の行列が続き、その人混みが掃けるのが駅から850m離れた西舞子へ下る坂道まで・・・という状況だった。海沿いの道は路上駐車の嵐で大渋滞。そして国道2号線も大渋滞であった。
自宅から花火は、狩口台の山の影になり、殆んど見えなかった。距離が近いだけに音だけは迫力があった思い出がある。
その夜、花火の音が聞こえなくなり、30分ぐらいした頃だったと思う。消防車と救急車のサイレンが聞こえ始めた。
当初は「近隣で火事かな?」と考えたが、サイレンは一向に鳴りやまず、むしろどこかにものすごい台数の消防車と救急車が終結してくる感じ・・・
まさにその6年前に起こった、阪神淡路大震災の直後の数日間を思わせる様相だった。
いったい何が起ったのだろう?インターネットのニュースを確認するが何もわからない。今とは違ってTwitterなどのSNSも無い時代である。震災の夜を彷彿とさせるサイレンの音に、当時が蘇り、寝れなくなった。
サイレンの音は深夜2時頃まで続いたように記憶している。
不気味さで寝れなくなり、再びネットで情報収集するも不明。
明け方の4時頃だろうか? 確か「2ch.」の書き込みから、JR朝霧駅付近で将棋倒し事故が起きたことを知った。
夜が明けて直ぐ、駅前まで行ってみたが、歩道橋は封鎖されており、数名の警官が立哨していた。
静寂が周囲を包んでいた。駅前にゴミが散乱している以外、昨夜の喧騒をうかがわせるものは何もなかった。
後日、歩道橋が通れるようになってから行ってみると、タイルの床に、可愛いシールが貼られたり、書き込みがされていた。また、歩道橋の手すりの金具の根元がいびつに曲がっており、人込みの圧力の凄さを改めて感じることとなった。
今でもまだ手すりの金具は曲がったままだと思う。←(※最近の記事で当時の手すりは外され、保管されているという)

2001年7月21日の夜、痛ましい事故が・・・
消防・救急のサイレンが一晩中鳴り続け、阪神淡路大震災の時を思い起こさせる一夜だった。どこで何が起ったのか?朝までわからなかったのも印象に深く残っている。
事故直後、現場に居合わせた後輩一家の話によると、心肺蘇生があちこちで行われ、それはもう凄まじい惨状だったという。
この日、私はJR舞子駅から帰宅。朝霧からだと通常15分のところが1時間近くかかってしまうので近づかないようにしていた。
歩道橋での事故は驚きだったが、むしろ駅のホームから人が転落する可能性の方が高いと感じていた。これはいつか何か起きるぞ・・・と。
事故後、歩道のタイルの上に小さなキャラクター・シールやら、寄せ書きなどが多く見られたのも印象に残っている。まさにこの場で亡くなった方々を偲んでのことだ。特に小さな子や年配の方が犠牲となった。
それと、遺族会が発足した途端、遺族会長宅に、昼夜を問わずひっきりなしに恫喝の電話が鳴り続け、奥さんがノイローゼになってしまった話も忘れないでいたい。

朝霧駅の状況については(神戸市垂水区無職女性73才、神戸7月24夕)
「歩道橋だけでなく、JR朝霧駅構内も大混雑でした。午後7時ごろホームに降りたものの、1時間半ほど出るに出られず。次々に後続電車から客が降りてきてたまる一方で、いつホームへ人が転落しても不思議じゃなかった。みんな『電車、もうこれ以上来るな!』と叫んでいるのに、駅員は1人も見かけませんでした。そしたら若い男の子10人ほどが、それぞれの肩に手を乗せ合って人間の鎖をつくり、ホームの際に立ってガードしてました。大きな声で『小さい子、気をつけや』『ホームから落ちんように』って。改札付近も舞子駅へ戻ろうとする人波や、あきらめて神戸の花火大会へ向かおうとする人の流れが押し合いへし合いでパニック状態。それでも駅員の指示はいっさいなかったんですよ。」

2000~2001カウントダウンの様子

 

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111012j:plain翌日の神戸新聞の記事

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111019j:plainこの写真はこの時以降、ネットでも見かけることが無い。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111315j:plain現在の様子(2020年2月撮影)雨風による風化の影響で、透明シートが付加されたアクリル板に、遺族らの当時の寄せ書きが浮かび上がっている。記憶は風化してゆくものだが、風化により、むしろ当時のことが浮かび上がるとは、実に不思議である。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111103j:plain画像加工で鮮明にしてみた。

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111035j:plain「安心して安らかにおねむり下さい」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111040j:plain「天国で元気にくらして下さい。」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111044j:plain「天国で親しい・・を作り、その・・を」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111049j:plain「お願は(けさないで?)下さい。」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111053j:plain「天国でみんなと力をあわして」

f:id:skihakuba2drnobo:20210723111058j:plain「自分をしんじ・めないで。」

 

また、当時、印象に残っているのは、亡くなられた位置の床面にプリクラなどのシールなどが貼り付けられ、マジックで数多くの寄せ書きがなされていた事だ。

実は、この文字の浮き上がりに気付いたきっかけは、柱に貼られていた小さなシールだった。「あれっ?! あの時と同じだ・・・」
よく見ると「愛の証(あかし)・明石」とある。

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f:id:skihakuba2drnobo:20210723185146j:plainそしてアクリル板の劣化による文字の浮き上がりに気付いた次第。先日は気が付かなかったので、今はもうこのシールは剥がされているように思いう。恐らくこれは、この浮き上がった文字に気付いて欲しいと想う誰かの仕業によるものだろう。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726124941j:plainこの写真位置が、当時シールや寄せ書きなどが、なされていた場所か?正確な位置は思い出せない。

f:id:skihakuba2drnobo:20210726124946j:plainそれでもこのタイルを見るたびに、剥がされ消されてしまったシール、寄せ書きを思い出すのである。

 

八甲田山スキーツアーの思い出(2021/07/20)

たまたま、ハリスマウンテンのヘリスキー動画を見ていると、集団で一気に滑る様子が映っていた。こんなことあるのかな?ふと、2005年、2006年の最厳寒期の八甲田山バックカントリー・スキーツアーのことを思い出した。

2005年、2006年と2月の最厳寒期に八甲田山バックカントリーツアーに参加した。長年の相方だったSAK氏に誘われてのことである。

厳寒期の八甲田山といえば、映画「八甲田山」のモデルにもなった明治35年(1902年)1月、青森第八師団・歩兵第五連隊の山岳遭難事故、「八甲田雪中行軍遭難事件」があまりにも有名だ。

この時代、日本にスキーはまだ入って来ておらず、この大事件をきっかけに、日本のスキーの歴史が始まったと言って過言ではない。

さて、八甲田山バックカントリーツアーに参加するまでに、2回、NZでヘリスキーを経験していたから、日本とNZのバックカントリーツアーに対する考え方の差には愕然とするものであった。

SAK氏と共に「やばいな・・」と感じ、翌年2007年は中止。
すると2月15日に、ツアー中の雪崩で2名のスキーヤーが亡くなるという事故が発生。これにはびっくり・・・というか、当然だろう・・・という感じ。

 

厳寒期の八甲田山バックカントリースキーツアー①

NZのヘリスキーだと、ヘリの定員という問題もあるが、1チーム4名程度のスキーヤーに対し1名のガイドが付く。2チーム混成だったりすると、スキーヤー10名程度に対して3~4名のガイドが同行することになる。

スキーヤー(お客)は全員ビーコン装着で、滑走前にはビーコンを使った救助法の簡単なレクチャーも行われる。
滑走に際しては、大抵の場合、コースに応じてガイドが雪崩のブロックテストを実施し、滑走に際しても一気に全員が滑らないよう、滑走間隔・タイミングが細かく指示される。

ところが、猛吹雪の八甲田の場合は、30名程度のスキーヤーに対しガイドが3名ほど。ビーコンなどはあるはずもなく、そんなスキーヤーが大斜面を一気に滑り降りる・・・
そしてあの2007年の雪崩による死亡事故だ。

我々は城ヶ倉ホテルのスキーツアーだったが、事故が起きたのは酸ヶ湯のツアーだった。2007年は酸ヶ湯のチームはどうかな?なんて言ってたから、中止して正解である。

酸ヶ湯のツアーは、スキージャーナル誌にも特集が組まれたり・・・と日本を代表するバックカントリースキーツアーの一つだったが、この事故をきっかけに徹底した対策が取られるようになったと聞く。
が、どうかな?そもそも、根本に日本的発想が存在するからな。

エピソード⑥ブラックダイヤモンド
 欧米のスキー場では、スキー場の斜面の難易度をブルー・イエロー・レッド・ブラックで色分けしている。それに関連して、その日の斜面状況を看板などを使って色分けで示している。ブルー;問題無し、イエロー;ちょっと危ない、レッド;危険に付き立ち入り禁止、ブラック;雪崩れの危険あり滑走禁止。そのブラックの指標が四角いので、雪崩れリスク最大の斜面状況を通称;ブラックダイヤモンドと呼ぶ。


厳寒期の八甲田山バックカントリースキーツアー②

2005年当時の記録より
「ブラックダイヤモンドな斜面」

その日、我々は比較的ロングコースに行ける事になった。視界は相変わらず15~20mである。
そんな中、足元に目をやると我々が進む度に雪面にヒビが入るのである・・・
状況はツアーが進行する度にひどくなり、SAK氏が足を一歩前にしただけで5mほど離れた雪面に亀裂が入る。周囲には我々の移動によって引き起こされた亀裂が、あちらこちらに存在する状態だった。

そんな雪面状況で「ビーコン」「ゾンデ」を所持していないツアー客20名以上が、同時に一つの斜面を横切る・・・のである。
いつ足元が崩れても・・・と覚悟だけは決めた。
しかも、この視界である。一旦崩れて埋まって身動きが取れなかったら・・・自分にできるのは、せめて斜面が崩れた時に逃げる方向を決めておく・・・という事だけであった。

無事、ツアーは終了。
しかし、私は納得がいかず、ホテルの周辺で雪崩のブロックテストをしてみた。
すると、深さ約15cmの所でスパッと雪面が切れた・・・
こんなに軽い力で見事に雪面が切れたのを見たのは初めてである。
この状況・・・どう今後に生かすべきか????
エピソード⑦ツアーの危険度
 ロープウェイの中での事である。いかにも一般ゲレンデスキーヤーといういでたちの女性がつれの男性に向かって「ねぇねぇ、ツアーでガイドにはぐれたらサァ・・どーなるんだろうねぇ・・・」などと、とぼけた事を言ってるのである。私は思わず「死ぬに決まっとるやろが・・」と言ってやろうかと思った。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720212301j:plainたまたま見つけたハリスのヘリスキー動画・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210720212324j:plain2006年、機内から見た槍ヶ岳・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210720212335j:plainこの人数が一気に大斜面を滑る恐怖・・・

f:id:skihakuba2drnobo:20210720212356j:plainそれもこの天候で・・・

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f:id:skihakuba2drnobo:20210720212330j:plain視界は常に悪く、写真は極めて少ない。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720212341j:plain一瞬だけ撮影できるタイミングがあった。

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f:id:skihakuba2drnobo:20210720212407j:plain御一行様、お帰りで・・・(銅像コース)青森第八師団第五連隊はこの下の沢に迷い込んだ模様。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720213335j:plain日・仏・独の混成チーム。ガイドはオーストリア人のリズ。小柄なリズのスキーは悪雪をモノともしない力強いものであった。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720213316j:plain他のチームと合流しての昼食。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720213542j:plain凍り付いた八甲田山ロープウェイ山頂駅。

f:id:skihakuba2drnobo:20210720213546j:plain山スキーヤーでもある僕は完全装備で臨んだ。

 

真夏から真冬、そして真冬から真夏へ(2021/07/16)

2002年、スキーの長年の相方であったグループ会社のSAK氏に誘われ、初めてNewZealandへスキーに行った。当時、海外旅行は4回目。もちろん海外スキーは初である。バックカントリー・スキーも未だで、この時のNZでのスキー(ヘリスキー含む)が、2003シーズンの山スキーデビューへと繋がる、我が人生に於いてかなり重要なターニングポイントだった。もちろん、英会話も全くダメだった。

到着初日の2002年8月11日は「海外での体調管理」という側面で忘れがたい日となった。それまでの僕の海外旅行経験といえば、グアム(1996年)、モンゴル(2000年・2001年)である。そもそも2回のモンゴル渡航が一般常識で考える「旅行」というよりは「不毛の地での調査」に近いものだったから、人の生活圏であるスキー場へ行くNZ渡航をやや甘く考えていたのかもしれない。いや、現実には次々と起こる事象をクリアして行くのに精いっぱいで、体調管理が疎かになってしまったのだった。

まずは出発前、スキーとブーツ、ウェアを含む荷物のパッキングが難航した。当時は受託手荷物の最大重量は24kgだったように思うが、当然のこと、日本は真夏で南半球のNZは真冬である。衣類は夏冬両方を準備する必要があった。仮に冬→夏への移動であれば現地到着後に脱げば良いが、冬の衣類を着て真夏の国内を移動はできない。加えてスキー用具である。ゲレンデ用ウェア、ゲレンデ用スキー(6kg)とブーツ(4kg)をスキー専用のオールインワンバッグにパッキングし、ハードアタッシュケースに冬の衣類とフィルムカメラ、ビデオカメラを・・・すると総重量は31kgほどになってしまった。

実はここで曲者だったのがスキー専用のオールインワンバッグだった。国内のスキー旅行では便利な代物だが、こいつが単体で4~5kgほどの重量があり、それにハードアタッシュケース(5.5kg)を含むと、それだけで10kgオーバーである。

流石に、スキーとブーツ・ストック、スキーウェアは宅配で空港まで送付したものの、泣く泣く、転がすことが可能なハードアタッシュケースを諦めて、肩から下げる布バックに荷物を押し込んでの出発となった。炎天下、重い荷を担いで関空まで移動は辛かった。

NZへのフライトは自宅を出てから8時間後の21時台であった。そしてエコノミークラスで11時間半、缶詰となり早朝のオークランドへ到着。入国審査、荷物受取り、離れた国内線へ移動し受付・乗換え、約1時間のフライトでクイーンズタウンまで。

ホテルに着いたのが自宅を出てから、時差3時間を含んだ20時間後の現地15時頃だったと記憶している。

後々は、キャスター付きの布製バッグ、山スキー用のウェアを普段に着回し、山スキー&兼用ブーツ、デジカメで写真と動画、機内持ち込み用にバックバック・・・で、かなりの軽量化を図ることになった。

 

 

 

 

 

 


3日目、リマーカブルズ。


2日目、ワナカ観光。


2日目、ワナカ観光。


2日目、ワナカ空港(戦闘機博物館)


4日目、ハリスマウンテン・ヘリスキー


5日目、グレノーキー(OneDay乗馬)